さだ まさし | |
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出生名 | 佐田 雅志[1] |
生誕 | 1952年4月10日(72歳) |
出身地 | 日本 長崎県長崎市 |
学歴 | 國學院大學中退[2] |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1973年 - |
レーベル |
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事務所 | さだ企画 |
共同作業者 | |
公式サイト | さだまさしオフィシャルサイト |
さだ まさし(本名:佐田 雅志〈読み同じ〉、1952年4月10日[5] - )は、日本のシンガーソングライター、俳優、タレント、小説家。國學院大學、東京藝術大学客員教授[6][7]。ファンとスタッフの間では「まっさん」の愛称で親しまれている。
フォークデュオのグレープでメジャーデビュー。「精霊流し」のヒットにより全国にその名を知られるようになった。ソロシンガーになってからも「雨やどり」「案山子」「関白宣言」「道化師のソネット」「親父の一番長い日」「北の国から〜遥かなる大地より〜」など、数々のヒット曲を生み出す。2019年10月6日時点で、日本で最も多くのソロ・コンサートを行った歌手でもあり、その回数は4,400回を越えている[8]。
トークの軽妙さは大きな魅力とされており、それで自身のコンサートのお客を楽しませ、またテレビ・ラジオ番組のパーソナリティーやMCなどとしても活躍。小説家としても活動し、『解夏』『眉山』などの作品を発表している。
父・佐田雅人と母・喜代子の長男として、1952年4月10日、長崎県長崎市で生まれる。弟[9]と妹[10]がいる。
佐田家の本家は島根県那賀郡三隅町(現:浜田市)にあり、本家の二男だった祖父・繁治は中国大陸や極東ロシアに渡り諜報活動に従事したのち商工省の大臣秘書官を務めた経歴の持ち主である[11]。その繁治と結婚した祖母エムもまたソ連(現:ロシア)のウラジオストクで料亭を営んでいたという当時の日本人女性としては異色の存在である[12]。父・雅人(1920 - 2009)は第二次世界大戦終戦後、長崎出身の戦友とともに復員し、そのまま長崎に住み着いた。その後、戦友の妹・喜代子(1926 - 2016)と結婚し、その結果、雅志が誕生したのであった。
雅志の幼少時は、父が材木商を営んでいて、かつ自宅は部屋が10以上もある豪邸だった[13](ただし、1957年の諫早の大水害によって父の事業は失敗し[14]、一家は豪邸を失い小さな長屋住まいとなる[注釈 1])。
3歳よりヴァイオリンを習い始める。1963年、小学校5年生のとき毎日学生音楽コンクール西部地区(九州地区)大会で3位、翌1964年、小学校6年生で同大会2位。ヴァイオリン指導者として高名な鷲見三郎に認められ、長崎市立西北小学校卒業後、中学1年生のときヴァイオリン修行のため単身上京する。以後、葛飾区で下宿し、葛飾区立中川中学校に通い、吹奏楽部に所属していた。中学3年生からの約20年間は千葉県市川市で過ごした。
最初の一年間は大邸宅の離れで叔父と下宿し、後に一人暮らしをする。叔父は市川男声合唱団に入っていて、その仲間が土曜になると集まり、覚えたてのギターでフォークソングの伴奏をしていたという。中学生時代に加山雄三やサイモン&ガーファンクルに影響され、ギターを奏でながら歌を作るようになる。駅前で弾き語りする勇気が無く、ギターケースを担いで京成本線高架や市川橋の下に行っていたという[15](なお、当時はNHK連続テレビ小説『おはなはん』にはまって38日間連続して遅刻する[15]、といった調子の生活をしていたという)。
上京後、(それなりにレッスンを受けつつ)本来の目的であったヴァイオリンの腕を磨く努力はしていたものの、「純粋なクラシック音楽のヴァイオリニスト」の道の厳しさや困難さは当人や家族が当初想像していた程度をはるかに越えていて当人は苦しみ、東京芸術大学音楽学部附属音楽高等学校(途中で東京都立駒場高等学校芸術科に志望校を変更)の受験は失敗という結果になってしまう。家族や自分自身の期待にこたえられなかったという深い失意の中、國學院高等学校に入学。以降ヴァイオリンへの熱意を失う。とはいえ生来の豊かな才能は高等学校在学中にも遺憾なく発揮され、ギターや作詞・作曲以外にも、小説作り、落語、スポーツなど数々の方面で頭角を現す。
高校卒業後、國學院大學法学部に進学した。尚、大学は数ヶ月程度で中退しており、ペンキ屋(塗装工員)など、数々のアルバイトをしながらの生活を送るが、肝炎を患ったことをきっかけに長崎に帰郷する[16]。1972年、高校時代からの友人吉田正美(現:政美)が東京から長崎にいる さだを訪ね、そのまま さだ家に住むこととなった[16]。その際、吉田は仕事を無断退職して失踪状態で長崎にやって来たことから、さだは吉田を叱責して東京に帰るよう諭すつもりでいたが、彼の姿を見て思わず「おい!よく来たなあ」と言ってしまったため叱責することができなくなったという[16]。以後二人は意気投合し同年11月3日、バンド「グレープ」を結成、音楽活動を開始する。当時、吉田拓郎が「結婚しようよ」や「旅の宿」で大ブレイクし[16]、自分たちの闘志にも火がついた[16]、フォーク調の曲作りを始めたのもこの頃から[16]。11月25日、NBCビデオホールで開かれた初めてのコンサートには定員300余りの客席に250名程度の聴衆しか集まらず、さだの弟・繁理が通りすがりの人を無理にでも引き込むようなこともあったという(このやり方をさだは「キャバレー方式」と呼んだ。)。やがて音楽プロデューサー川又明博にスカウトされ、1973年10月25日に「雪の朝」でワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)より全国デビューした。所属事務所(プロダクション)はユイ音楽工房、ヤングジャパングループ[注釈 2]などを当たるが不採用となり、最終的には赤い鳥の事務所ザ・バードコーポレーションで預かる形で、デビューに至った。
デビュー曲「雪の朝」は8000枚しか売れず、友人らがレコードを買い込んで知り合いに無理に買わせるといった状況であったという。1974年4月25日に第2作目のシングル「精霊流し」を発表するが、まだ無名のフォークデュオであったからか、当初の売り上げは芳しくないものだった。しかし、東海ラジオの深夜番組『ミッドナイト東海』の中で、アナウンサー・蟹江篤子が担当の曜日で毎週のように流し続けた。これが助力となって、同番組の放送エリアの名古屋地区のみならず全国的なヒットとなり、この年の第16回日本レコード大賞作詩賞を受賞することとなった。
1975年11月にリリースした「無縁坂」もヒット曲となった。しかし、そのころからさだは再び肝炎を患いプロデューサーに1年間の休養を打診したが、聴衆から忘れられるという理由で断られている。また「縁切寺」(アルバム曲)のヒット、「雰囲気を変えるため」に出された、「朝刊」が思うようにヒットしなかったことが重なってしまったこと、つまり「グレープの音楽は暗い」というイメージがついてしまい、自分たちのやりたい音楽と受け手との齟齬(そご)が生じたため、1976年春に解散した。なお、さだは解散コンサートにて解散の理由を「精霊流し、無縁坂、縁切寺ときたらあとは墓場しかない」と述べている。
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1976年のグレープ解散後、一時業界からはなれる。体調を崩していたさだは、療養と共に就職を考えるも活動が上手くいかず、同年11月、「線香花火」でソロ活動を始める。その際、グレープ時代の所属事務所であったザ・バードコーポレーションから離れ、自身のプロダクション会社であるさだ企画を設立。
1977年に、雨やどりがきっかけで恋に落ち、結婚まで繋がる姿をコミカルに歌ったシングル「雨やどり」がオリコンシングルチャート1位になる大ヒットとなる。それまで一番売れた「精霊流し」でも最高同チャート2位であり、さだにとってグレープ時代から通じて初めての首位獲得となった。後に異ヴァージョン(「もうひとつの雨やどり」、「雨どりや」、ライブにて、谷村新司との自虐コラボレーション「雨昴」)が作られるほどの大ヒットとなった。その後、山口百恵に提供した「秋桜」や「案山子」などがヒットする。
1978年10月に個人レーベル「フリーフライト」を設立し、1979年1月に同レーベルから初のシングル「天までとどけ」をリリースした。同年7月にリリースした「関白宣言」は150万枚を超える大ヒットとなる。以後「親父の一番長い日」「道化師のソネット」「防人の詩」「驛舎」など、数々のヒット曲を放つ。
1980年、映画『翔べイカロスの翼』(主題歌は「道化師のソネット」。共演は原田美枝子)にサーカス団のピエロの青年役として主演、音楽も担当する。
さらに、中国大陸を流れる大河を舞台にしたドキュメント映画を制作することを構想し、『長江』(主題歌は「生生流転」)の企画・監督を行い、同作品は1981年11月に公開された。映画自体は120館上映というヒットであったものの、(さだは映画制作の世界の一般的な資金調達のしくみを知らず、うかつにも さだ自身の支出で映画を制作しようと考えてしまったことが原因となり[注釈 3])さらに中国での撮影でのさまざまな障壁もあいまって撮影期間が延びたこともあってさだの予想を超えて制作費が膨らみ、結果として約28億円(さだ曰く金利を含めると35億円)もの借金(負債)が残ってしまった[注釈 4]。(大抵の人ならば、このような額だと自己破産手続きを進めることを考えるところだが)さだはそのようには考えず、ひたすら律義に、これを返済してゆくことを決意する。
この頃は映画の失敗に加え、1980年代的な「ドライでクール」な世相のノリと合わなくなったこと、「関白宣言」「防人の詩」に対して右翼的との批判を受けるなど、さだ不遇の時代でもあった[17]。
1981年、フジテレビ系ドラマ『北の国から』の音楽を担当する。テーマ曲「北の国から〜遥かなる大地より〜」は歌詩のないものだが非常に有名な曲となる。
1985年、ソロ・コンサート通算1,000回(東京厚生年金会館)を達成する。血液型による恋愛模様を描いた「恋愛症候群」をリリースしている。ちなみに、本人はA型で、父と妹はAB型、母と弟はB型、妻はO型、息子と娘はA型である。
南こうせつが中心になって1986年から広島市で開催された「広島ピースコンサート」の第一回に参加した際[18]、友人たちを前に「広島で出来ることをなぜ長崎でやらないんだ」と嘆いたら、「それはお前がやらないからだろう」と言われた[18]。機が熟したと感じ、長崎での平和コンサート実現に向け動き出し、長崎選出の衆議院議員・西岡武夫に「8月9日の長崎原爆忌にコンサートを開きたい」と訴えた[18]。しかし西岡から「理念は分かったが、8月9日は長崎に保守・革新陣営が集結して騒然とした空気に包まれるから、埋没するだけだ」と言われたため、それならば広島原爆忌の8月6日に、「長崎から広島に向かって平和を訴える」という趣旨にした[18]。20回は絶対に続けたいと最初から考え[18]、1987年8月、故郷長崎市で「長崎から広島に向って歌う」無料平和祈念コンサート『夏・長崎から』を開催した[18]。以後2006年までの20年間毎年8月6日に長崎でコンサートを行い[18]、地元市民だけではなく全国からファンが集まる長崎市の夏の一大イベントとなった[18]。
1993年、ソロ・コンサート通算2,000回(大阪フェスティバルホール)を達成した。
1995年、長崎市に平和祈念のミュージアムを作る「ナガサキピーススフィア貝の火運動」を開始する(2003年4月にナガサキピースミュージアム開館)。
1996年、長崎県県民栄誉賞を受賞した。
2000年4月1日、福岡ダイエーホークス開幕戦にて「君が代」を独唱した。ロンドン・ロイヤルアルバートホールにて日本人男性歌手では初となるコンサートを行う(女性は1994年の髙橋真梨子が初)。
2001年9月、小説『精霊流し』を発表した。後にNHKでテレビドラマ化され、さらに映画化もされた。さらに、小説にのっとって選ばれた音楽をまとめたアルバム『小説「精霊流し」の世界』を発売した。
児童書『おばあちゃんのおにぎり』発刊、2002年にひろすけ童話賞を受賞する。
2002年3月21日、ソロ・コンサート通算3,000回(東京国際フォーラム)という前人未到の偉業を達成。9-12月、デビュー30周年記念コンサート・ツアー『MOON-BOW at THE 30th』を東京・名古屋・大阪にて各8夜構成で開催。グレープ・デビューからの時系列に沿って8日間掛けて足跡を辿っていくという趣向で曲目、バンド編成が日替わりのスペシャルコンサート。12月、小説集『解夏(げげ)』発表。2004年に映画化、フジテレビ月9枠で『愛し君へ』としてドラマ化。
2004年12月、長編小説『眉山』発表。
2005年8月17日、FIFAワールドカップ予選サッカー日本代表対イランの試合にて「君が代」を独唱。9月6・7日、「ソロ通算3333回記念コンサート」を日本武道館にて2日間開催。同7日に32作目のオリジナルアルバム『とこしへ』発売。10月、サッポロビール「冬物語」で初のパッケージデザイン。
2006年1月1日未明にNHK総合テレビでさだ司会の生放送特番『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』が放送される。その後も続編が制作され、2020年現在も月に1回程度の放送が続いている。
2006年4月、シングル「がんばらんば(長崎弁ヴァージョン)」をリリース(他のヴァージョンが収録されているわけではない)。
2006年8月6日、最後の『夏・長崎から』である「2006 夏 長崎から さだまさし ファイナル」を行う。その際に「来年は8月9日に広島から長崎に向かって歌うコンサートをやるよ」と宣言する。
2006年、『夏・長崎から』の活動に対し、第48回日本レコード大賞・特別賞を受賞する。
2007年8月9日 広島市民球場開設50周年記念 「2007 夏 広島から さだまさし」を開催。広島市民球場でコンサートを行うのは2004年の奥田民生に次いで2人目。
2008年秋、美空ひばりの曲をカバーしたアルバム『情継 こころをつぐ』をリリース。トップ10入りを果たす。出続けていたNHK紅白歌合戦に落選するが、『年の初めはさだまさし』は行われた。
2009年12月31日、21年ぶりの年またぎカウントダウンライブを両国国技館にて行う。コンサート終了直後に『年の初めはさだまさし』の生放送を現地にて行った。
2010年7月16日、さだまさし3776回記念 富士山山中湖ライブを山梨・山中湖交流プラザきららにて開催。
2012年6月10日に本門佛立宗横浜の妙深寺、法深寺主催。パシフィコ横浜で行われた「東日本大震災 復興祈願、開導会 併 先住御十三回忌 報恩記念大会」に一切無償で出演。
2012年、デビュー40周年記念ツアー「さだまつり」を6月の長崎ブリックホールからスタート( - 2013年1月)。二夜構成で1日目が「前夜祭 〜しゃべるDAY〜」として9曲程度しか歌わずにトーク中心、2日目が「後夜祭 〜うたうDAY〜」として逆に殆ど喋らずに歌中心という内容だった。
2013年7月17日、日本武道館で、自身の記録を塗り替えるソロ・コンサート通算4,000回目を達成。
2017年1月1日、「さだまさし=カワイイ」をテーマとしたプロモーションの展開をスタート。公式インスタグラム開設と「PPAP〜和風バージョン」と題した動画を「YouTube」上に発表[19]。
2018年より自身のデビュー45年を期に所属レコード会社をJVCケンウッド・ビクターエンタテインメント(現:ビクターエンタテインメント〈二代目〉)に移籍することが決定。同年夏発売の自身通算45枚目のオリジナルアルバムから同社からのリリースとなる。5月27日、第85回日本ダービーで国歌「君が代」を独唱。
血液型はA型。
既婚。1983年に結婚し、一男一女の父である。
弟はさだ企画社長で「日本人初のプロサッカー選手」の佐田繁理。妹は歌手の佐田玲子。長男はユニット「TSUKEMEN」のメンバーとして2010年にメジャーデビューしたヴァイオリニスト・TAIRIKこと佐田大陸。長女は2011年にメジャーデビューしたピアノ・デュオ「Pretty Bach」のメンバーでゴスペラーズ・北山陽一の妻・詠夢。
西洋のポピュラー音楽やクラシック音楽の技法を駆使した作品が多い。彼は前述のように元々ヤッシャ・ハイフェッツに憧れたヴァイオリン少年であり、単旋律楽器であるヴァイオリンに親しんだことは彼の音楽性に大きな影響を残すこととなった。
自分のコンサートでヴァイオリンを弾くことも多い。また、時にクラシックからの引用が見られる。
楽曲の制作は基本的に作曲した曲に詞を当てはめる「曲先」で行う。作詞のモチベーションが上がるきっかけは制作の締め切りが明確に存在する時であるといい、「締め切りは自分の虚飾を削ぎ落としてくれるすばらしい兵器だね。今日書かないとダメだもん。書けって言われたら、書くよね」と語っている[20]。
「北の国から〜遥かなる大地より〜」を倉本聰と相談しながら1時間で制作したエピソードが度々語られたり、『嵐にしやがれ』(日本テレビ系列)の企画で嵐が作成した詞に15分かけてメロディをつけて「NIF〜 NIKU イン ファイヤー」という楽曲を完成させるなど、即興で楽曲を制作するセンスにも長けている[21]。
さだのコンサート回数は2013年7月には4,000回に達し(オリコン調べによる、3,000回を超えている日本人のプロ歌手はさだまさしのみ)、日本記録を伸ばし続けている。さだがこれほど多くのコンサートを行うようになったのは映画『長江』で多額の借金を抱えたことが一つのきっかけだった[22]。さだはこれ以後、返済のために年間100回以上、多い年には162回(1982年実績)ものコンサートを行うようになった。なお、30年以上をかけ最終的に債務は完済している[23]。しかし、その後も精力的にコンサート活動を続け、2023年末の時点で4600回を超えている。
さだの作品には、「飛梅」「まほろば」「修二会」など宗教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌も多く、太宰府天満宮や東大寺などの神社仏閣の宮司・管長らとも親交がある。このためか東大寺大仏殿・薬師寺・平安神宮など、寺社でのコンサートも数多く行っている。たまたま地方へコンサートに行った際、その日に地元高校の野球部が県大会で優勝して甲子園出場を果たし、コンサート当日にはその高校の野球部の帽子をかぶり校歌を歌うというサプライズを行ったこともある。
1980年代前半、中国へのコンサートの際には使用する音楽機材を運搬するために日本航空のDC-8貨物機をチャーターしている。現在では海外の大物アーティストが来日するときは当然のことになっているが、日本人アーティストで貨物機をチャーターしたのは2012年現在、さだのみである。
中学1年生の時にサイモン&ガーファンクルを聴いてギターの魅力に開眼した。全体の音をリードしていく楽器であり、単旋律楽器であるヴァイオリンとは対極にあるところに感激したと語っている。ポール・サイモンが1970年代末に「たかが音楽、いつだってやめられる」と言った時にはさだはショックを受け、ニューヨークまで行ってサイモンにその真意を問い質したことがある[24]。
その次にさだが大きな影響を受けたのが加山雄三だった。「君といつまでも」を聞いて衝撃を受け、すぐさま下宿先に住んでいた青年のギターを借りて全く同じコード進行の曲を作ったのが彼の最初の作品だという。その時初めてギターを弾いたのだが、幼少時代からずっとヴァイオリンを弾いていたため比較的簡単に弾けたという。他にブレッド(デヴィッド・ゲイツ)のバラードタイプのナンバーにも非常に好感を寄せている。
同世代の日本のシンガーソングライターにはビートルズやボブ・ディランの影響を受けた者が多い中で、加山雄三やサイモン&ガーファンクル等の影響でポピュラー音楽に目覚めたことは他のシンガーソングライターと一線を画す、彼の大きな特徴である[25]。
また中村八大、永六輔の影響を大きく受けているとも語っている。
さだは2020年11月の『読売新聞』連載〔時代の証言者〕に於いて、「僕の曲は批判的なレッテルを貼られることが多かった」と話し、この批判に対して以下の反論をした(内容の半分以下抜粋)[26]。「『関白宣言』が女性蔑視と批判を浴び、それを巡って論争となったわけですが、この時に限らず、まず1974年、グレープ時代に『精霊流し』を出した時には『暗い』。当時、『四畳半フォーク』という言葉もあり、フォークという音楽に暗くじめじめしたイメージがありました。死を描いたこの曲が、『フォーク=暗い』にはまったのは納得できます。しかし、以後、『グレープ=暗い』となったのには、『ちょっと待ってくれよ』という気持ちでした。結局、このイメージから逃れられなかったところに、グレープの限界を感じたのは事実です。翌年、グレープで『無縁坂』を出した時には、『マザコン』。息子が人知れぬ母の苦労を思いやる歌詞ですが、あまりに短絡的な批判ではないでしょうか? 1973年に海援隊が母への思慕を歌った『母に捧げるバラード』を出した時には、『マザコン』の『マ』の字も出なかったと記憶しているのですが……。やせて髪が長く気の弱そうな僕の風貌がいけなかったのでしょう。こいつなら何を言っても黙っていると思われたようです。ソロ活動を始めた頃、フォークやロックなど洋楽色の強い音楽は、ニューミュージックと呼ばれるようになり、僕の音楽もそこに分類されました[注釈 5]。ソロで最初のヒット曲『雨やどり』は『軟弱』。そして『関白宣言』は『女性蔑視』『男尊女卑』。この頃は『計算ずくの曲作りが鼻につく』『商売根性が見え見えだ』との世評もありました…」[26]。
さだはヒット曲から受ける印象とは違い明るく喋り好きな性格であり、高校・大学と落語研究会に所属していた[注釈 6]。本人は「人生は明るく、歌は暗く」がモットーと話す。
コンサートでは「トーク」や「噺(はなし)」と呼ばれるMC(曲との間の喋り)を「3時間のなかの1時間」喋りという、時には歌よりも長い時間繰り広げることもあり、その内容はほとんど落語か漫談のようである。本人は「とある落語家が弟子に『さだまさしのコンサートに勉強しにいってこい』と言った」と話す。
落語の演目のように定番となっているネタも多く、1994年にファンクラブ会員向けにオールリクエスト・コンサートを行った際には、歌だけでなくどのネタを喋るかまでリクエストで決めるという、普通の歌手ではあり得ないようなことまで行われた。
このため、ほとんどのライブ・アルバムでは「トーク」までノーカットで収録されており、さらには「トーク」単体で音源や本としてリリースされているほどである。
1994年から1997年にかけて『ステージ・トーク・ライブ 噺歌集』としてトーク(+インストゥルメンタル)のCD集が発売されたほか、2006年には『さだまさし トークベスト』というトークだけのベストアルバムまでリリースされ、「本業である歌のCDより売れている」(本人談)。コンサートでトークをするようになったのは、自身を嫌っているかのように見えた最前列の観客が話をしたときに笑ってくれ、嫌われていなかったとほっとしたことがきっかけだという[27]。自身のトークはコンサートにおける必需品ではないが、アイスクリーム(歌)をおいしく食べるためのウエハース(トーク)という意味で「アイスクリーム屋のウエハース」だと喩えている[27]。
2012年のデビュー40周年ツアー「さだまつり」では、1日目はバンドメンバーもなしでほとんど歌わずしゃべるだけ、歌う時もさだのギター1本。そして2日目はほとんどしゃべらず歌うだけで、しかも「きだまきしとテキトージャパン」によるショーまである、という2夜連続コンサートを行った。ツアーを終えてさだは「非常に疲れた。やっぱり歌としゃべりが適度に混じっているのが一番いい」と語っている。その喋りの才能は、ラジオの深夜放送(文化放送『さだまさしのセイ!ヤング』1981年 - 1994年)のパーソナリティとしても遺憾なく発揮された。2006年の元日には『セイ!ヤング』時代の雰囲気をテレビで再現した『新春いきなり生放送!!「年の初めはさだまさし」』なる生番組をNHK総合テレビで担当した。放送時間は2時間強だったが、番組内で歌われた歌はたった3曲で、ほとんどの時間をトークで進め、裏番組の番組名を読み上げたり、NHK紅白歌合戦を暗に批判するなどした。
同年5月6日深夜には同じコンセプトで『横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし』を同じくNHK総合テレビで放送したが、こちらは1時間の番組内で歌ったのは実質的に唱歌「故郷」1曲のみであった。どちらの番組もやはり自虐ネタとして「低予算」を前面に押し出していた。以降も多くの生放送番組が放送されている。これらの番組に関しては「今夜も生でさだまさし」を参照。
内容はこの歌もあの歌も売れなかったといった自虐ネタが多い。自らが企画した映画『長江』がヒットしたものの予算オーバーで30億円前後もの借金を作りコンサートで返済するようになって以降髪の毛が薄くなっていることも恰好の題材であり、「谷村新司、さだまさし、松山千春は『フォーク界御三毛』」などと話す。
小説のデビュー作はグレープ解散時期に出版した『本-人の縁とは不思議なもので…』(1976年3月、八曜社)収録の「超人達のコーヒーブレイク」である。その後ファンクラブ会報『まさしんぐworld』に「泣いた赤鬼」、「出雲路」などを連載する(その後「さまざまな季節に」(1981年11月、文藝春秋)に収録)。
2001年、テレビ朝日で放送されていた『ほんパラ!関口堂書店』の番組企画をきっかけに、幻冬舎社長見城徹の指導のもと、自伝的小説『精霊流し』を刊行し[28]、ベストセラーになった。2002年には短編小説集『解夏(げげ)』を刊行した。
『精霊流し』はNHK・夜の連続ドラマとして2002年にドラマ化(『精霊流し〜あなたを忘れない〜』)、2003年に映画化もなされた。『解夏』は映画化(2004年)され、さらにフジテレビ系ドラマ『愛し君へ』(2004年)の原作となった。
2004年には、第3作『眉山(びざん)』を発表。NHK-FMでラジオドラマ化され、漫画雑誌のシルキーでコミック化された。2007年には東宝制作で、犬童一心監督により映画化され、さらに2008年にはフジテレビでドラマ化されたた。
さだは『精霊流し』以前にもアルバム『ADVANTAGE』と『自分症候群』に曲のタイトルを題材にした短編小説を歌詩カードに掲載している(後に新潮文庫から『自分症候群』として出版)。このほか、上記2アルバム以外のオリジナル・アルバムの殆どに、各曲毎に自らの手による「ライナーノーツ」が付されているのも特徴的であり、これを通じて、各楽曲の成立過程、さだの想い入れ、背景、テーマ等をよく知ることができる。
童話作家としても活動しており、自身の体験を基にした数冊の絵本を出している。コンサートのMCでもお馴染みの噺である、2作目の『おばあちゃんのおにぎり』は歌手として初めてひろすけ童話賞を受賞した。
さらにエッセイも数多く、毎日新聞や新潮社の雑誌『旅』(完了)、ダイヤモンド社の雑誌『TV Station』などへの連載も行っている。『さだの辞書』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞した。
ファンクラブの会報にも毎回さだの短編が掲載されている。読み切り形式でジャンルは不定。
生まれ育った日本への愛着を持っていることを語り、「僕はこの国を心から愛している」と著書で発言しており[29]、前述の仏教的なモチーフや日本の古典・民族的な題材を用いた歌などにもあるように、日本の将来を憂い、失われていく日本の伝統的な文化・道徳を大事にしようとする傾向もある[30]。ある企業が行った世界のティーンエイジャーに「不安に思うのは何か?」と問うアンケート調査で、どの国も「国の未来」と答えたにもかかわらず、日本の子供達だけそう答える者がいなかったことに対して「このままでは日本はたぶん滅びる」とショックを受け危機感を持った旨を語り[31]、「日本人が日本語が下手になったらこの国は終わる」という危機感があることも語っている[29]。また、政治家が経済について話すことを嫌い、外交・安全保障・教育に対して徹底的に取り組むことを求めている[31]。
さだは長崎県出身で親族に原爆被災者がいることもあって、戦争の悲惨さや凄惨さを痛感している故に平和を求める気持ちが強く、そうしたテーマの楽曲が制作されたりイベントが開催されることも多い[32]。「戦友会」のように戦死者や遺族の心情に寄り添う楽曲も存在するほか[33]、ロシアによるウクライナ侵攻をテーマにした「キーウから遠く離れて」は後にウクライナ在住のウクライナ人の教員及びウクライナ人の文学に詳しい者によってウクライナ語へ訳され、その歌詞を読んだ戦時下の人から「胸を打つ」との声が上がるなどの反響が寄せられた[34]。
2014年4月20日の東京新聞のコラム「つれづれ」にて『日本の調査捕鯨停止命令 食文化への差別悲しい』と題し、日本の捕鯨文化の維持を望む主張をした[35]。
台湾との交流も深く、東日本大震災発生時に日本円にして200億円もの寄付をしたことへの感謝の意や、台湾南部地震の被災者へのエールを込めて2017年に現地でのチャリティーライブ及び『今夜も生でさだまさし』の放送を行っている[36][37]。2024年4月3日に花蓮地震が発生した際には改めて「台湾の人々は東日本大震災のおり、一夜で200億円もの義援金を集めてくれたことを忘れない。金額がどうのではなく、日本に対する友情が嬉しかったなあ。いやもちろん金額もすごいよ」と先述と同様の思いを述べ、「今朝の台湾地震、かなりひどい。僕らに何ができるか、真面目に考えてみる」というメッセージをThreadsに投稿[38]。同月22日には東京都・港区にある台北駐日経済文化代表処(大使館に相当)を訪問し、義援金1000万円の目録を謝長廷代表(大使に相当)に手渡ししている[39]。
祖父母が中国大陸に渡って活躍していたことから、中国大陸への強い郷愁(愛情)のようなものを間接的に受け継いでおり、周辺諸国との友好を願う気持ちも強い(息子を“大陸”と名づけている)[40]。
こうした一面の一部分しか知らない者から批判を受けることもあり、かつては『防人の詩』で「右翼」、『しあわせについて』で「左翼」と批判されたほどであったという[41]。
ウィキペディアに対して「ネットに書いてあることは、実に怪しげです。ウィキペディアっていうネット百科事典に、『さだまさし』に関する記事が載ってるんですけど、嘘ばっかりです」と批判している[42]。
アルバムのクレジットなどでは、「作詞」ではなく「作詩」と表記されている[43]。
さだの詩へのこだわりは、保有する長崎県長崎市(旧西彼杵郡琴海町)の大村湾内にある「寺島」と呼ばれていた小さな島が、1995年4月1日にさだの意向で詩島(うたじま)と改名されたことにも現れる。島には「飛梅」という曲の舞台ともなった太宰府天満宮から勧請した「詩島天満宮」がある。
プロ野球では、長嶋茂雄監督が1980年に解任されるまで読売ジャイアンツファンだったが、その後は東京ヤクルトスワローズファンとなった。ヤクルトの初代オーナー・松園尚巳が長崎県出身だったのが理由である。ヤクルト優勝時に同ナインが『さだまさしのセイ!ヤング』に電話出演したこともあり、元選手兼任監督の古田敦也とは毎年一緒に酒を飲む仲だという[44]。2015年3月31日のスワローズ本拠地開幕戦では「スワローズCREW名誉会員」として始球式に登板した[45]。また神宮外苑を舞台にした曲『絵画館』の歌詞には「スワローズのユニフォーム」というフレーズがあり、『つばめよつばめ』ではスワローズファンの悲哀も歌っている。「今夜も生でさだまさし」でも直前のスワローズの試合結果によく言及している。
その他、福岡ソフトバンクホークスも九州出身者として毎日新聞連載のコラムで「わがホークス」と表現しており、北海道日本ハムファイターズファンが試合中に「北の国から」を大合唱しているのを聴いて、思わず心が揺れたとも発言している。親交のある栗山英樹監督の要請で、2013年の北海道日本ハムファイターズ本拠地開幕戦(札幌ドーム)にゲスト参加。「北の国から」を観客と共に歌い、国歌斉唱も行った。
浦和レッドダイヤモンズファンでもあり、1995年には「浦和花色木綿」というサポーターズクラブを結成。浦和レッズ発行のハンドブックには2008年版までオフィシャルサポーターズクラブ代表者として掲載されていた。かつてのバックメンバー坂元昭二も浦和サポーターである。自身のラジオ番組『有限会社 さだまさし大世界社』で、地元・長崎市が三菱重工等の企業城下町であり、前身の三菱重工業サッカー部以来のファンと公言している[注釈 7]。
また1991年から2010年まで使用された競艇のSG・G1・一般競走の優勝戦のファンファーレはさだが作曲したものであった[46]。
甲子園で、千葉県の多古高校と滋賀県の伊香高校が対戦し、伊香高校が10対8で多古高校に勝利することが夢である、とテレビ番組で語った。
1980年代の前半に東京地下鉄・赤坂見附駅付近(地下)に「さすらひの自由飛行館」というカフェを経営していた。
この他、渋谷に「モンペトクワ」というレストランを友人と共同出資していた(2004年9月末で閉店。西村知美の夫である西尾拓美が店長をしていた)。故郷長崎市に「自由飛行館」がある。
NHK『連続テレビ小説』のファンであり、1番好きな作品は中学生の時に観た1966年度の『おはなはん』と話す[47]。大泉洋が出演する、HTB『水曜どうでしょう』のファンでもある[48]。
ファンクラブ「まさしんぐWORLD」の会員数は、現在約25,000人。未だにコンサートの観客動員力は高く、チケットが発売後すぐに売切れてしまうことも多い(実際に、武道館で3,333回記念コンサートを行った時は2日間分が9分で売り切れた)。東京・大阪などの大都市圏で行われるコンサートの場合は、ファンクラブの会員でも1人2枚しか先行予約できないことも多い。
2004年に長崎市栄誉市民となった。存命中の人物に贈られたのはさだが初めてである。NHKが行った「紅白歌合戦出場歌手に関する世論調査」では15位にランクインした。2005年のNHK紅白歌合戦で歌ってほしい歌のアンケート(スキウタ〜紅白みんなでアンケート〜)でも「関白宣言」が男性歌手の中で82位になった。
上記の人たちによるものではあるが、コンサートに至ってはサポートバンドを結成し参加している。
名称も、サーカス、元祖サーカス、ふりーばるーん、亀山社中、さだばんど、さだ工務店と変化している。
さだ工務店のメンバーは公益財団法人風に立つライオン基金の理事でもある。
芸能人の友人も多いが、最も仲が良いのは中学・高校の同級生、そして長崎にいた頃の小学校の同級生であり、今でも2週間おきに会って飲んでいる。とコンサートで話している。さだのコンサートで学生時代の話になるとその時の担任の先生や同級生の名前もファンに教えている。
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さだの熱心なファンは全国各地に多く、その特色の一つとして、各地にファンの集まりである「さだまさし研究会」(略称:さだ研)なるものが数多く結成されていることが挙げられる。かつて原宿・表参道にあったさだまさしの店「A・WEEK(ア・ウィーク)」には全国各地のさだ研の会報が置かれていてそこでの交流があったり、毎夏の『夏 長崎から さだまさし』に幟を持参して参加した各団体が一堂に揃って写真撮影する光景も見られた。
学生サークルの場合は同じ大学のさだファン同士で集まってのサークル設立が多いが、社会人や一部の学生団体には『セイ!ヤング』に投稿した「さだ研を作りたい」旨の葉書が採用されて設立されたものも少なくない。『セイ!ヤング』では一時期、毎週のようにさだ研設立の葉書が読まれて一種のブームが巻き起こったほどである。またパソコン通信やインターネット上に設立されたさだ研もある。
「さだ研」が『セイ!ヤング』でブームになるきっかけは、1990年に450回記念の一環で行われた東大・早稲田大・信州大の3大学対抗のさだにまつわるクイズの大会だった。結果は東大さだ研が圧勝。この番組企画の直後からあちこちで「さだ研を作りましょう」という葉書が番組に飛び込むようになっていった。また番組側やさだ本人も好意的にそれらの葉書を採用し、1992年には550回記念で一般リスナー対象に「さだカルトクイズ大会」が行われることになった。このクイズ大会のために一般のさだファン同士やさだ研内でも「勉強会」や「情報交換」などが行われた。
最盛期には全国に数多くの団体が存在していたが、1994年の『セイ!ヤング』の番組終了とともに団体数は激減している。現在既存の学生系さだ研の多くはすでに解散か、新入生がなかなか入ってこないために上級生のみ、もしくは現役学生がゼロに近いOB・OGのみの「OB・OG会」のような活動になっている。全盛期には「さだ研に入る」ことを目標に大学受験を突破したさだファンも少なからず存在していたが、『セイ!ヤング』の終了と共に学生世代のファン人口が激減したこともあって継続してサークルを運営する世代が育たなくなっており、既存の各団体の現役生は毎年頭を悩ませているという。
早大の現役サークルも消滅の危機に陥ったが、他大生を加えたインターカレッジ・サークルとして存続させた[66]。部員が鎌倉女子大学の学生一人のみの時期もあった[66]。その後、2012年のさだまさし還暦祝いコンサート会場に早大さだ研のブースが設置されたのを機に関東近辺の大学生が多く集うようになった[67]。
社会人系サークルも『セイ!ヤング』終了と同時期に活動停止・解散した団体が多かったが、中には10年以上も地道に活動を続けている団体や、サークルを10年以上続けて別の趣味をメインにしたサークルへの事実上の合併・組織改編を果たしてしまった団体も僅かながらある。
また逆に『セイ!ヤング』等による「全盛期」を知らない団体の中にはインターネットが普及したことによって地元会員以外のメンバーも掲示板などで集い会員を増やしているものもあり、さらにはmixi・インターネットさだ研のようにインターネット上のみで活動し、盛況となっているさだ研もある。早稲田大学さだ研が独自にブログ[68]を立ち上げていたり、京都大学さだ研が毎年長崎で配布する会報を会の公式サイト[69]上でPDFファイルで公開している。
1990年リリースのアルバム『夢回帰線II』に収録されている「Song for a friend」の歌詩カードには、「コーラス:南カリフォルニア大学さだまさし研究会合唱部」という架空の団体名が記されている。
大学生活を描いたマンガ『幕張サボテンキャンパス』(みずしな孝之著)」にて、主要登場人物の一人が「さだ研」に加入している。
2024年には、さだの「さだ研って本当に俺のこと研究してるのか?」という言葉を受けて「さだまさしを本気で学問してみたら」をテーマにさだ研による『さだまさし解体新書 ターヘル・サダトミア』が出版[70]、シンポジウムが開催された。
また、1981年にはアルバム『うつろひ』の発売に合わせて、「嫁入新聞」というパロディ新聞を発行している。
私公立学校の校歌を作曲し提供している。
回 | 年度 | 放送日 | サブタイトル | 会場 |
---|---|---|---|---|
1 | 2006 | 1月1日 | 新春いきなり生放送!年の初めはさだまさし | NHK放送センター |
2 | 5月7日 | 横浜から突然生放送!大型連休もさだまさし | NHK横浜放送局 | |
3 | 8月5日 | 長崎から突然生放送!真夏の夜もさだまさし | NHK長崎放送局 | |
4 | 2007 | 1月1日 | 2007年新春生放送!年の初めはさだまさし | NHK放送センター |
5 | 3月18日 | 真夜中なのに生放送!卒業式にもさだまさし | ||
6 | 4月29日 | 松山から生放送!大型連休もさだまさし | NHK松山放送局 | |
7 | 8月8日 | 広島から生放送!真夏の夜もさだまさし | NHK広島放送局 | |
8 | 10月28日 | 名古屋から生放送!秋の夜長もさだまさし | NHK名古屋放送局 | |
9 | 2008 | 1月1日 | 2008年新春生放送年の初めはさだまさし | NHK放送センター |
10 | 3月30日 | 真夜中なのに生放送桜咲いてもさだまさし | ||
11 | 5月11日 | 真夜中なのに生放送!連休明けもさだまさし | リーガロイヤルホテル東京 | |
12 | 7月27日 | 徳島から生放送!真夏の夜もさだまさし | NHK徳島放送局 | |
13 | 10月26日 | お台場から生放送!秋の夜長もさだまさし | フジテレビ本社ビル | |
14 | 2009 | 1月1日 | 2009年新春生放送年の初めはさだまさし | NHK放送センター |
15 | 2月15日 | 盛岡から生放送!凍てつく夜もさだまさし | NHK盛岡放送局 | |
16 | 4月29日 | 長野の春はただいま御開帳!
(この回よりタイトルは「今夜も生でさだまさし」) |
NHK長野放送局 | |
17 | 5月31日 | 北の国から 2009 札幌 | NHK札幌放送局 | |
18 | 8月1日 | 奈良よし・鹿よし・あをによし | 春日大社 | |
19 | 8月30日 | 夏の終わりに水戸で芸術? | 水戸芸術館 | |
20 | 11月1日 | そうだ、京都でやろう | 大谷大学旧本館 | |
21 | 11月28日 | 秋の夜(よ)ナハ(那覇)はめんそーれ | NHK沖縄放送局 | |
22 | 2010 | 1月1日 | 2010年新春生放送!年の初めはさだまさし | 両国国技館 |
23 | 1月31日 | 秋田でまさしときりたんぽ | NHK秋田放送局 | |
24 | 4月25日 | しょうゆう訳で今度は千葉です。 | NHK千葉放送局 | |
25 | 5月30日 | 甲府でコーフン幸福気分 | NHK甲府放送局 | |
26 | 8月1日 | 北の国から2010旭川 | NHK旭川放送局 | |
27 | 8月29日 | 浪花さだしぐれ・夏の陣 | NHK大阪放送局 | |
28 | 10月3日 | 火の国熊本さだ馬刺し | NHK熊本放送局 | |
29 | 10月31日 | 南国土佐をさだにして | NHK高知放送局 | |
30 | 11月28日 | 出雲だョ!神佐月だョ!全員集合 | NHK松江放送局 | |
31 | 2011 | 1月1日 | 2011年新春生放送!年の初めはさだまさし ~尾張のはじまりなのだ!~ | 名古屋国際会議場 |
32 | 1月31日 | あたり前田の加賀まさし | 石川県政記念しいのき迎賓館 | |
33 | 2月27日 | 美濃でも鵜飼いな仲間たち | 長良川国際会議場 | |
34 | 4月9日[注釈 12] | がんばらんば!日本 | NHK放送センター | |
35 | 5月1日 | 皆のもの!連休じゃ佐賀ってよし! | NHK佐賀放送局 | |
36 | 6月5日 | がんばらんば!福島 | NHK福島放送局 | |
37 | 7月31日 | 琵琶湖でビバビバ!江江GO! | 大津港 | |
38 | 8月21日 | おいでまさし山口へ | NHK山口放送局 | |
39 | 9月18日 | いざ仙台!独断流さだ政宗 | NHK仙台放送局 | |
40 | 10月23日 | 秋の米子はゲゲゲのゲ! | 米子鬼太郎空港 | |
41 | 11月28日 | 越中富山だ!きときとナイト | NHK富山放送局 | |
42 | 2012 | 1月1日 | 2012年新春生放送!年の初めはさだまさし | 大阪市中央体育館 |
43 | 1月29日 | おーかやまいいそう!吉備といつまでも | NHK岡山放送局 | |
44 | 2月26日 | 薩摩!揚げあげナイト! | NHK鹿児島放送局 | |
45 | 4月29日 | わーかやまいいぞう!夜空の梅星 | NHK和歌山放送局 | |
46 | 5月27日 | 今夜も生でさだまさしイン・オレゴン~さだデー・ナイト・フィーバー!!~ | 米国KPTV | |
47 | 6月24日 | ギョギョ!宇都宮でギョウザいます! | NHK宇都宮放送局 | |
48 | 8月19日 | 北の国から2012北見 | NHK北見放送局 | |
49 | 10月28日 | いたいた まさしが おーいたいた | NHK大分放送局 | |
50 | 11月18日 | 一日えちぜん!ほやほやナイト | NHK福井放送局 | |
51 | 2013 | 1月1日 | 2013年新春生放送!年の初めはさだまさし | 仙台サンプラザホール |
52 | 1月27日 | どげんかせんと!宮崎ナイト | NHK宮崎放送局 | |
53 | 2月24日 | こんにゃ ぐんまで くにさだまさし | NHK前橋放送局 | |
54 | 3月31日 | ずっとがんばれ日本!朝まで生で音楽会 | NHK放送センター | |
55 | 4月28日 | 北の国から2013室蘭 | NHK室蘭放送局 | |
56 | 5月26日 | 静岡・浜松・茶だま茶し | NHK浜松支局 | |
57 | 7月28日 | 北の国から2013夏・函館 | NHK函館放送局 | |
58 | 8月25日 | ナイストゥ水戸ユー! | NHK水戸放送局 | |
59 | 9月29日 | 特別尽くしの長崎ナイト!(長崎は今日も生だった) | 稲佐山公園野外ステージ | |
60 | 10月27日 | かがわいいぞう!うどんその愛 | NHK高松放送局 | |
61 | 11月24日 | ニイガッタチャンス! | NHK新潟放送局 | |
62 | 2014 | 1月1日 | 2014年新春生放送!年の初めはさだまさし | フェスティバルホール |
63 | 1月26日 | 幸か福岡 バリさだナイト! | NHK福岡放送局 | |
64 | 3月30日 | 朝まで生で音楽会2014 | NHK放送センター | |
65 | 4月26日 | なぜかさいたまさし | NHKさいたま放送局 | |
66 | 5月25日 | 春日の山に出でしさだかも | 春日大社 | |
67 | 7月27日 | 北の国から2014帯広 | NHK帯広放送局 | |
68 | 8月31日 | 来た!来た!まさしが北九州 | NHK北九州放送局 | |
69 | 9月28日 | 六甲けっこうコケコッコー | NHK神戸放送局 | |
70 | 10月26日 | 胸を張って三重を張ってワン津ワン津 | NHK津放送局 | |
71 | 11月30日 | 山形や いも煮しみ入る さだの声 | NHK山形放送局 | |
72 | 2015 | 1月1日 | 2015新春生放送!年の初めはさだまさし | 東京国際フォーラム |
73 | 2月1日 | ああ 津軽海峡 さだ景色 | NHK青森放送局 | |
74 | 2月22日 | そうだ、また京都行こう | NHK京都放送局 | |
75 | 3月29日 | 日本一周達成大感謝祭 | NHK放送センター | |
76 | 5月3日 | 香港さんいらっしゃい! | 香港日本人学校 | |
77 | 5月31日 | 横浜じゃんじゃんナイト | 氷川丸一等食堂 | |
78 | 6月28日 | 福山ビン備後!ゴー!ゴー! | NHK福山支局 | |
79 | 8月30日 | 北の国から完結編2015釧路 | NHK釧路放送局 | |
80 | 9月27日 | ネバー岐阜アップ! | ぎふメディアコスモス | |
81 | 10月25日 | 日光けっこう!さだだらけ | 日光東照宮 | |
82 | 11月29日 | 越中富山だ!さだます寿司 | NHK富山放送局 | |
83 | 2016 | 1月1日 | 2016新春生放送!年の初めはさだまさし | 名古屋国際会議場 |
84 | 2月7日 | 曲もいいけど滋賀サイコー! | NHK大津放送局 | |
85 | 2月27日 | どん!鹿児島でごわす | NHK鹿児島放送局 | |
86 | 3月26日 | 朝まで生でがんばらんば・東北! | 気仙沼市民会館 | |
87 | 4月24日 | 佐賀しものは有田ましたか!? | 有田町役場 | |
88 | 5月29日 | メガネもいいけど福井いね! | セーレンプラネット | |
89 | 6月26日 | 清水わく湧くオンステージ | 清水寺 | |
90 | 8月28日 | 丸亀ッシュナイター!うどーんと打ってみよう | 四国コカ・コーラボトリングスタジアム丸亀 | |
91 | 10月9日 | あべのハルカスで歌もあるカス!? | あべのハルカス | |
92 | 10月30日 | 北の国から2016富良野 | 新富良野プリンスホテル | |
93 | 11月27日 | 鳥取は左島根の右兵庫!砂丘! | NHK鳥取放送局 | |
94 | 2017 | 1月1日 | 2017新春生放送!年の初めはさだまさし | 東京国際フォーラム・ホールA |
95 | 2月5日 | 「台北です」 | 台北日本人学校 | |
96 | 2月26日 | 来た来たまさしが秋田来た! | NHK秋田放送局 | |
97 | 3月25日 | 朝まで生で文化祭 | NHK放送センター | |
98 | 4月30日 | 大型連休にジャスト水戸! | NHK水戸放送局 | |
99 | 5月28日 | 姫路のお城へ兵庫!ゴー! | 姫路城 | |
100 | 6月25日 | 北の国から2017網走 | 網走監獄 第3舎房廊下 | |
101 | 8月26日 | しゃべって歌ってナ・ラ・ランド | 奈良国立博物館 | |
102 | 9月24日 | 久慈だョ!じぇじぇじぇん員集合 | 三陸鉄道 久慈駅 | |
103 | 11月5日 | 長崎名物ちゃんぽんカステラさだうどん | 長崎県美術館 |
『NHK紅白歌合戦』には1990年から2007年までほぼ毎年出演していた。1977年・第28回にも「雨やどり」で出場の打診を受けていたが、当時の紅白ではフル・コーラスを歌うことができないという理由で辞退したという[80]。2020年・第71回、2021年・第72回は特別企画の形で出場した。
年度 | 放送回 | 回 | 曲目 | 出演順 | 対戦相手 | 備考 |
---|---|---|---|---|---|---|
1979年 | 第30回 | 初 | 関白宣言 | 8/24 | 金沢明子 | |
1980年 | 第31回 | 2 | 防人の詩 | 8/23 | 五輪真弓 | |
1990年 | 第41回 | 3 | 風に立つライオン | 16/29 | 小林幸子 | |
1991年 | 第42回 | 4 | 奇跡〜大きな愛のように〜 | 21/28 | テレサ・テン | |
1992年 | 第43回 | 5 | 秋桜 | 27/28 | 和田アキ子 | トリ前 |
1993年 | 第44回 | 6 | 主人公 | 22/26 | 藤あや子 | |
1995年 | 第46回 | 7 | 精霊流し | 10/25 | 石嶺聡子 | 前半トリ |
1996年 | 第47回 | 8 | 案山子 | 20/25 | 和田アキ子 (2) | |
1997年 | 第48回 | 9 | 秋桜(2回目) | 18/25 | 由紀さおり・安田祥子 | |
1998年 | 第49回 | 10 | 北の国から'98 | 19/25 | 由紀さおり・安田祥子 (2) | |
1999年 | 第50回 | 11 | 奇跡〜大きな愛のように〜(2回目) | 23/27 | 小林幸子 | |
2000年 | 第51回 | 12 | 無縁坂 | 9/28 | 長山洋子 | |
2001年 | 第52回 | 13 | きみを忘れない〜タイムカプセル〜 | 25/27 | 川中美幸 | |
2002年 | 第53回 | 14 | 精霊流し(2回目) | 25/27 | 和田アキ子 (3) | |
2003年 | 第54回 | 15 | たいせつなひと | 13/30 | ZONE | |
2004年 | 第55回 | 16 | 遥かなるクリスマス 紅白歌合戦バージョン | 23/28 | 中島美嘉 | |
2005年 | 第56回 | 17 | 広島の空 | 15/29 | 森山良子 | 前半白組トリ(2) |
2006年 | 第57回 | 18 | 案山子(2回目) | 20/27 | アンジェラ・アキ | |
2007年 | 第58回 | 19 | Birthday | 15/27 | 坂本冬美 | 前半白組トリ(3) |
2020年 | 第71回 | 20 | 奇跡 2021(3回目) | (対戦相手なし) | 特別企画[注釈 14] | |
2021年 | 第72回 | 21 | 道化師のソネット | (対戦相手なし) | 両国国技館から中継 特別企画(2回目)[注釈 14] | |
2023年 | 第74回 | 22 | 秋桜(3回目) | 20/22 | 石川さゆり | 両国国技館から中継 |