アニタ・コルビー | |
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生誕 |
アニタ・クーニハン 1914年8月5日 アメリカ合衆国 ワシントンD.C. |
死没 |
1992年3月27日 (77歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク州オイスター・ベイ |
職業 |
モデル、女優 ファッション・美容コンサルタント 著作家 |
活動期間 | 1933年ころ - 1963年ころ |
配偶者 | Palen Flagler (1970-1984) (死別) |
親 | ダニエル・フランシス・"バド"・クーニハン (Daniel Francis "Bud" Counihan) (父) |
親戚 | フランシーン・クーニハン (Francine Counihan)(妹) |
アニタ・コルビー(Anita Colby、1914年8月5日 - 1992年3月27日)は、アメリカ合衆国の女優、モデル。
コルビーは、アニタ・クーニハン (Anita Counihan) として、コミック・ストリップの漫画家としてニューヨークの芸術家や新聞関係者の間では伝説的な人物であるバド・クーニハン (Bud Counihan) の娘として、ワシントンD.C.に生まれた。モデルとなった彼女は、時給50ドルという当時の最高額を稼ぐようになった。彼女は「ザ・フェイス (The Face)」とあだ名され、数多くの広告看板や宣伝、特に紙巻きたばこの広告に登場した。
1935年にはニューヨークからハリウッドへ移り、姓の名乗りをコルビーに改めた。1936年の映画『メアリー・オブ・スコットランド』や、その他のB級映画に端役として出演したが、女優として成功を収めるには至らなかった。2年後、彼女はニューヨークへ戻り、『ハーパーズ バザー』誌の広告営業の仕事に就いた。
映画界を離れた後、久々に出演した1944年の映画『カバーガール』の全国的な宣伝キャンペーンに登場し、彼女は再びハリウッドで名を成すことになった。映画女優に復帰して以降の1940年代には、1947年の映画『真昼の暴動 (Brute Force)』などにも出演した。
1940年代のコルビーは、デヴィッド・O・セルズニックに雇われ、セルズニック・インターナショナル・ピクチャーズの役員として、彼が契約を結んでいたジェニファー・ジョーンズをはじめとする女優たちに、美容や優美な振る舞い、パブリシティなどを教えていた。コルビーは、セルズニック傘下の最高の女優たち、ジェニファー・ジョーンズ、イングリッド・バーグマン、シャーリー・テンプル、ドロシー・マクガイア、ジョーン・フォンテインたちと、親しく接しながら働いた。その後、1954年には、テレビ番組『The Pepsi-Cola Playhouse』の司会・主役を務めた。コルビーはまた、傾斜付きベッドに変形できる椅子 (a chair convertible to inclined bed) を発明して1952年に特許を申請し、1954年に認められている (U.S. patent 2690209)[1]。コルビーは熱心なカトリック教会の信者であった。彼女は77歳で、肺の病気で死去した[2]。