アレクサンドル・モギレフスキー Александр Яковлевич Могилевский | |
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1910年、セルゲイ・クーセヴィツキーの指揮でヴァイオリンを演奏しているモギレフスキー。ローベルト・シュテルル画。 | |
基本情報 | |
生誕 |
1885年1月27日 ロシア帝国、オデッサ[1] |
死没 |
1953年3月7日(68歳没) 日本、東京都[1] |
学歴 | モスクワ音楽院 |
ジャンル | クラシック |
職業 | ヴァイオリニスト |
アレクサンドル・ヤコヴレヴィチ・モギレフスキー(ロシア語: Алекса́ндр Я́ковлевич Могиле́вский、1885年1月27日 - 1953年3月7日)は、ロシアのヴァイオリニスト。ニコライ2世のための宮廷楽団の楽長をつとめた。アレキサンダー・モギレフスキーとも表記。
オデッサ生まれ。6歳からヴァイオリンを始め、1898年にモスクワに移りモスクワ音楽院に入学、ニコライ・ソコロフスキー[2]とヤン・フジマリーに師事し[1]、後に同校を首席で卒業した。1900年1月にはサンクトペテルブルク音楽院に入学しレオポルト・アウアーに師事した[1]。1909年、モギレフスキー弦楽四重奏団を設立。
スクリャービンの教え子で同僚で親友でもあり、セルゲイ・クーセヴィツキーによる1910年の演奏旅行でスクリャービンと共演した[3]。1910年、モスクワ・フィルハーモニー協会音楽演劇学校ヴァイオリン科主席教授。1919年から1921年までモスクワ音楽院教授[1]。1921年、ストラディヴァリウス弦楽四重奏団に入団。
ピアニストのナデージダ・ニコラエヴナ・ド・ボーアルネ・ロイヒテンベルク(1898-1962)と演奏旅行で親しくなり、1929年[4]に結婚(1938年に離婚)。この演奏旅行はシンガポールやオランダ領東インド(現・インドネシア)、日本といった極東諸国から始まった。
1927年3月から12月まで東京高等音楽学院(現在の国立音楽大学)の講師[1]。
1930年に再来日して帝国音楽学校の教師となり、1932年から東京音楽学校(現在の東京芸術大学)で教鞭をとる[1]。弟子に鈴木鎮一や[5]諏訪根自子がいる。 1938年4月には第6回日本音楽コンクールの審査員も務めた[6]。 妻に若い男と駆け落ちされた後、日本人の家政婦と再婚[7]。第二次世界大戦中は軽井沢に疎開した。1953年に東京で死去。墓所は小平霊園にある。
元妻でピアニストのナデージダ(1898-1962)は、フランス皇后ジョゼフィーヌの直系の子孫であり、ボアルネ家ロイヒテンベルク公爵ニコライの二女である。ナデージダとの間には2人の子がおり、長男のミカエルは演奏旅行中の1929年にインドネシアで生まれ、次男マクシミリアンは日本滞在中の1935年に軽井沢で生まれた[8]。
ピアニストのエフゲニー・モギレフスキーは弟の孫に当たる[7]。