エドマンド・モーティマー Edmund Mortimer | |
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出生 |
1376年12月10日 |
死去 |
1409年 ウェールズ、ハーレフ城 |
配偶者 | キャサリン(オワイン・グリンドゥールの娘) |
子女 |
ライオネル 娘3人 |
父親 | 第3代マーチ伯エドマンド・モーティマー |
母親 | 第5代アルスター女伯フィリッパ |
サー・エドマンド・モーティマー(Sir Edmund Mortimer、1376年12月10日 - 1409年)は、イングランドの騎士。第3代マーチ伯エドマンド・モーティマーとイングランド王エドワード3世の次男・クラレンス公ライオネル・オブ・アントワープの1人娘フィリッパの末子。兄は第4代マーチ伯ロジャー・モーティマー、姉エリザベスはヘンリー・パーシー(ホットスパー)の妻。
1402年6月、ウェールズでイングランド王ヘンリー4世に反乱を起こしていたオワイン・グリンドゥールの討伐に向かったが、敗れて捕虜になった。ヘンリー4世が解放する素振りを見せなかったことに憤慨したモーティマーはグリンドゥールに寝返り、同年11月に彼の娘キャサリンと結婚した。さらに、同じくヘンリー4世に不満を抱く義兄のホットスパーとその父ノーサンバランド伯ヘンリー・パーシー、ダグラス伯アーチボルド・ダグラスらと結託、甥の第5代マーチ伯エドマンド・モーティマーをイングランド王に就ける計画を企てた[1][2][3]。
だが、反乱は翌1403年にホットスパーが敗死したことで失敗、1405年にノーサンバランド伯がスコットランドへ亡命して劣勢になったモーティマーはグリンドゥールと共にハーレフ城へ退去した。やがてハーレフ城もヘンリー王太子(後のヘンリー5世)率いるイングランド軍に包囲され、モーティマーは包囲中の1409年に死んだとされるが、戦死またはペスト感染とされ死因は明らかでない。妻キャサリンとの間に息子ライオネルと3人の娘を儲けたが、息子を除く家族はイングランド軍に捕らえられロンドン塔へ送還、1413年に死亡が記録されている。グリンドゥールも行方不明となり反乱は鎮圧された[4][5][6]。
ウィリアム・シェイクスピアは戯曲『ヘンリー四世 第1部』でモーティマーがグリンドゥールに捕らえられた出来事を書いているが、彼を同名の甥であるマーチ伯と間違えて劇に登場させている[7]。