エド・ウィスコスキー | |
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カーネル・デビアーズ(1987年) | |
プロフィール | |
リングネーム |
"イージー" エド・ウィスコスキー カーネル・デビアーズ メイジャー・デビアーズ ポーリッシュ・プリンス メガ・マハリシ デレク・ドレイパー ウルフ・ウィスコスキー |
本名 | ウィリアム・エドワード・ウィスコスキー |
ニックネーム | ザ・マングース |
身長 | 190cm - 193cm |
体重 | 118kg - 124kg |
誕生日 | 1945年1月10日(79歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 ミズーリ州 ブキャナン郡セントジョセフ |
スポーツ歴 | アメリカンフットボール |
トレーナー |
ロード・リトルブルック ハーリー・レイス[1] ロニー・エチソン[2] |
デビュー | 1972年[1] |
"イージー" エド・ウィスコスキー("Easy" Ed Wiskoski、本名:William Edward Wiskoski[2]、1945年1月10日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。ミズーリ州セントジョセフ出身のポーランド系アメリカ人。ラストネームは「ウィスコフスキー(Wiskowski)」と表記されることもある[3]。
キャリア後期はアパルトヘイトの将校ギミック、カーネル・デビアーズ(Col. DeBeers)のキャラクターで活躍した[4]。後年のハードコア・レスリングに通じるラフファイトを繰り広げたヒールのレジェンドとして、"The Grandfather of Hardcore" の異名を持つ[1]。
ノースウェスト・ミズーリ州立大学ではアメリカンフットボールで活動し、NFLのシンシナティ・ベンガルズに短期間所属後、1972年にプロレスラーとしてデビュー[1]。ベビーフェイスのポジションでNWAのミッドアトランティック地区などを転戦後、1975年よりヒールに転向。同年5月31日、地元ミズーリのカンザスシティを本拠地とするセントラル・ステーツ地区にて、ジェリー・オーツからNWAセントラル・ステーツ・ヘビー級王座を奪取[5]。12月12日にはセントジョセフにて、テリー・ファンクのNWA世界ヘビー級王座に挑戦している[6]。同地区ではディック・ザ・ブルーザーやアンドレ・ザ・ジャイアントなどの大物ベビーフェイスとも対戦した[1]。
1977年7月、全日本プロレスに初来日。外国人エース格のディック・マードックと組んで時折メインイベントに出場したほか、ザ・デストロイヤー、高千穂明久、天龍源一郎、ジャンボ鶴田、そしてジャイアント馬場とのシングルマッチも行われた[7]。
帰国後の同年8月より、オレゴンおよびワシントン州をサーキット・エリアとする太平洋岸北西部のPNW(パシフィック・ノースウエスト・レスリング)に参戦[8]。11月12日にダッチ・サベージを破ってNWAパシフィック・ノースウエスト・ヘビー級王座を獲得[9]、12月7日にはバディ・ローズと組んでムーンドッグ・メイン&ロン・バスから同タッグ王座を奪取した[10]。
1978年はローズとのコンビでサンフランシスコにも進出して、10月25日に同地区認定のNWA世界タッグ王座をディーン・ホー&ロン・スターから奪取。ローズの負傷後はロディ・パイパーを新パートナーに起用して、最終的には同王座の最後のチャンピオン・チームとなった[11]。1980年6月7日にはジョージ・ウェルズを破り、同地区のフラッグシップ・タイトルだったUSヘビー級王座にも戴冠している[12]。
サンフランシスコ地区の閉鎖後はNWAの南部テリトリーを転戦。1981年はオクラホマにて、セントラル・ステーツ地区での抗争相手でもあったマイク・ジョージと組み、7月11日にエディ・ギルバート&リッキー・モートンからトライステート・タッグ王座を奪取[13]。1982年はデレク・ドレイパー(Derek "The Mongoose" Draper)の変名でフロリダに登場、7月16日にデビッド・フォン・エリックを下して南部ヘビー級王座を獲得した[14]。
1983年1月、ポーリッシュ・プリンス(The Polish Prince)と名乗ってWWFに登場[15]。フレッド・ブラッシーをマネージャーに迎え、当時のWWFヘビー級王者ボブ・バックランドへの新しい刺客としてデビューしたが、数試合のTVテーピングを行ったのみで継続参戦することはなかった[16]。その後は欧州のCWA遠征などを経てPNWに復帰し、メガ・マハリシ(Mega Maharishi)なる教祖ギミックの異色キャラクターに変身。1985年4月13日にはケンドー・ナガサキをパートナーにパシフィック・ノースウエスト・タッグ王座に返り咲いている[10]。
1986年、南アフリカのヨハネスブルク出身を自称し、アパルトヘイトを推進する反米主義者の将校、カーネル・デビアーズ(Colonel DeBeers)に変身してAWAに登場。4月20日にミネアポリスのメトロドームで開催されたビッグイベント "WrestleRock 86" ではワフー・マクダニエルに勝利[17]。ニック・ボックウィンクルが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも度々挑戦し、サージェント・スローター、カート・ヘニング、スコット・ホール、ジミー・スヌーカとも抗争を展開した[18][19]。
AWAには団体最末期の1990年まで出場し、ダイヤモンド・ダラス・ペイジやポール・E・デンジャラスリーがマネージャーを担当していたこともある[2]。なお、AWA時代の1987年11月にはブルーザー・ブロディのパートナーとして全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦への参加が発表されていたが、ブロディはスヌーカと組んで出場することになったため、再来日は実現しなかった[3]。
AWA崩壊後はカリフォルニアの新興団体UWFを経て、1992年より古巣のPNWに戻り、ジェシー・バーのファミリーが立ち上げた後継団体のチャンピオンシップ・レスリング・USAにも参戦。ビリー・ジャック・ヘインズ、ブリックハウス・ブラウン、レイ・ミステリオ・ジュニアらと対戦し、1994年6月には日本から遠征してきた剛竜馬ともタッグを組んでいる[20]。同団体認定のTV王座も再三獲得し、1997年3月18日にマット・ボーンを破って現役最後となる5回目の戴冠を果たした[21]。
引退後は2001年から2006年まで、オレゴン州ポートランドにてレスリング・スクールをバディ・ローズと共同で運営[22]。メイジャー・デビアーズ(Major DeBeers)の名義で北カリフォルニアのインディー団体にも時折出場していた[20]。