人物情報 | |
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生誕 |
1859年4月11日 スイストゥールガウ州ベルク |
死没 | 1931年4月24日 (72歳没) |
出身校 | チューリヒ大学・ジュネーヴ大学・ベルリン大学・ライプツィヒ大学 |
子供 | マヌ・ロイマン(言語学者) |
学問 | |
研究分野 | 東洋学・言語学 |
研究機関 | フライブルク大学 |
エルンスト・ロイマン(Ernst Leumann、1859年4月11日 - 1931年4月24日)は、スイス出身のドイツのインド学者。ジャイナ教やホータン語の研究がある。日本人留学生が多くロイマンのもとで学んだことでも知られる。
1859年、スイスのトゥールガウ州ベルクでドイツ系の家庭に生まれる。チューリヒ大学とジュネーヴ大学で言語学を、ベルリン大学とライプツィヒ大学でサンスクリットを学んだ[1]。ベルリン大学のアルブレヒト・ヴェーバーにジャイナ教を学び、1881年に『アウパパーティカ(ウヴァヴァーイヤ)・スートラ』の校訂および語彙集で[2]ライプツィヒ大学の博士の学位を取得した[3]。
1882年から1884年までオックスフォードでモニエル・モニエル=ウィリアムズのサンスクリット辞典の改訂にたずさわった。改訂版はモニエルの没した1899年に出版された。
1884年にフラウエンフェルトのカントンスシューレ(ギムナジウム)の教師の職を得た。同年ドイツに帰化し[1]、ストラスブール大学(当時はカイザー・ヴィルヘルム大学シュトラースブルク)のサンスクリット教授に就任した。1909年から1910年には学長をつとめた。第一次世界大戦後の1919年にストラスブールがフランス領になると、フライブルク大学の名誉教授になった。
19世紀末に浄土宗第1期海外留学生として荻原雲来や渡辺海旭らがストラスブール大学に留学してロイマンに学んだ。フライブルク時代には渡辺照宏ら多数がロイマンに学び、日本人の方がドイツ人学生よりも多かった[4]。
ロイマンは博士論文以来ジャイナ教を研究した。中でも『アーヴァシヤカ(アーヴァッサ)』を「いわばジャイナ教徒の主の祈り」にあたると考えて[8]研究したが、ほとんどが原稿のまま残され、没後に教え子のヴァルター・シュブリングによって出版された。
1993年にフランスのジャイナ教研究者であるナリニー・バルビールがロイマンの1897年の論文をリプリントし、フランス語訳と追補・語彙集をつけて出版した[6]。
バルビールはまたロイマンの論文集を1998年に出版した。序にロイマンの詳しい伝記を含む。
1907年以降、中央アジアで発見されたホータン語(ロイマンは「北アーリア語」と呼んだ)仏典の研究を発表した[9]。
現在『ザンバスタの書』と呼ばれるホータン語写本の研究を、1919年に「弥勒会(Maitreya-samiti)」として発表した。その後も研究を続け、没後に子のマヌ・ロイマンによって編集・出版された[10]。