カール・フォン・ブラース Karl von Blaas | |
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Fratelli Vianelliによる肖像写真 | |
生誕 |
1815年4月28日 オーストリア帝国, ナウダース |
死没 |
1894年3月19日 オーストリア=ハンガリー帝国, ウィーン |
カール・フォン・ブラース(Karl von Blaas または Karl de Blaas、1815年4月28日 - 1894年3月19日)はオーストリアの画家である。ウィーン美術アカデミーやヴェネツィア美術アカデミーの教授を務めた。
オーストリアのチロル州のナウダース(Nauders)の農家に生まれた。1832年にインスブルックで学んだ後、母方の叔父の支援を受けて、当時、オーストリアの支配下にあったヴェネツィア美術アカデミー(Accademia di Belle Arti di Venezia)で1832年から1837年まで学び、ルドヴィーコ・リッパリーニに学んだ。1837年に歴史画を描いて、ローマ留学の権利を得られる賞を受賞し、数年間、ローマとフィレンツェで活動した。当時ローマで活動していた「ナザレ派」の画家、ヨハン・フリードリヒ・オーファーベックの作品から影響を受けた。
装飾画家、肖像画家として高い評価を得て、1851年にはウィーン美術アカデミーの教授に任じられた。この頃、ウィーンのウィーン軍事史博物館の壁画の製作を行った[1]。1855年のパリ万国博覧会にも出展し、入賞した。1955年には1814年から1866年までオーストリアが支配していたヴェネツィアに移り、ヴェネツィアの美術アカデミーの教授となった。
ウィーン美術アカデミーやヴェネツィアのアカデミーでブラースの教えた学生にはレオポルト・カール・ミュラーや、フランチェスコ・ベーダ(Francesco Beda)[2]、エウジェニオ・プラティ、ジュゼッペ・バリソン、ジュリオ・デル・トーレ(Giulio Del Torre)らがいる。
息子の オイゲン・フォン・ブラース(Eugene von Blaas:1843-1942)とユリウス・フォン・ブラース(Julius von Blaas:1845-1923)も画家になった。