キャッチ・アズ・キャッチ・キャン

キャッチ・アズ・キャッチ・キャンCatch As Catch Can / CACC)は、レスリングの一種である。フリースタイルレスリングや現代のプロレスの主要な源流の一つと考えられている。歴史的と地域的に競技形態や技術の内容は変化している。 キャッチレスリングシュートレスリングまたは単にキャッチとも呼ばれている。本項ではCACCの原型であるランカシャースタイルも含めて解説する。

特徴

[編集]

19世紀のランカシャースタイルでは後の世のフリースタイルレスリングやプロレスとは異なり、サブミッションホールド関節技絞め技など広く相手から降参を奪う技)が使用され、ピンフォールの他、サブミッションによる勝利 (Submission Fall, サブミッションで降参させるのか戦闘不能後にフォールを奪うのかは不明) での試合決着が存在していた[1]

1931年の書籍『レスリング』によると、プロフェッショナルのランカシャー・スタイル(正式名は「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン」)は以下のようなルールであった。絞め技は両者が合意したときのみ使用が許され、腕で相手の喉を押す場合はもう一方の腕は相手の頭部や首に触れてはならない。ピンフォールの他、片方の競技者が継続を拒絶した場合は相手の勝利に。判定勝ちもあった。反則は引っかくことと噛みつくことであった。プロフェッショナルのグレコ・ローマン・スタイル(フレンチ・スタイル)も下半身の攻防について以外は同様であった[2]

技術体系

[編集]
「Lessons in Wrestling & Physical Culture」よりフランク・ゴッチによるトーホールド。フリースタイルレスリングで認められているアンクルホールドとは異なり、足首の関節を極めている。

1898年にニューヨーク・アスレティック・クラブのレスリングコーチであるヒュー・レオナルドが著した"A hand-book of wrestling"にはグレイプバイン・ロック(コブラツイスト)、サイドチャンスリー(ヘッドロック)、クロス・バトック(腰投げ)」等の技が紹介されている[3]1912年のマーティン・ファーマー・バーンズの著作「Lessons in Wrestling & Physical Culture」では各種ネルソン・ホールド、各種レッグダイブ、チャンスリーホールド(フロント・ネックチャンスリー)、ハーフネルソン・アンド・クロッチホールド・ピックアップ(ボディスラム)、アームアンドリストホールド(アームドラッグ)、アームアンドレッグピックアップ(ファイアーマンズキャリー)などのアマチュアレスリングでも使用されている技の他に、アマチュアレスリングでは禁止されているトーホールドやアームホールド(ストレートアームバー)、ハンマーロックといった関節技、絞め技のストラングルホールド(裸絞め)などの技がストレッチダンベルを用いた体操と共に紹介されている[4]

歴史

[編集]

起源

[編集]

日本レスリング協会初代会長の八田一朗1953年の自著で、まずグレコローマンスタイルがヨーロッパに広まり、イギリスに渡って数百年後に下半身も攻防に使用できるレスリングを始め、これを「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイル」と呼び、面白いのでイギリスの植民地など世界各地に広まった、と述べている[5]。一方、プロレス研究家の那嵯涼介は、16世紀から18世紀にかけてヨーロッパで出版された徒手格闘技の教則本に数多くのサブミッションが紹介されていることを指摘し、本来、ヨーロッパの民俗レスリングにおいてサブミッションは一般的なものであったが、それが危険な技術と見なされて次々に封印され、最後まで残っていたのがランカシャー地方のレスリングだったのではないかとの見方を示している[1]

12世紀ヘンリー2世時代以降、イングランドではレスリングが盛んであった[3]ブリテン島で伝統的に行われていたレスリング競技のうちイングランド北部のランカシャー地方で発達した流派「ランカシャースタイル」が CACC の元々の形であった。なお、ランカシャースタイルの起源はアイルランド島である。ランカシャースタイルが伝統的にどのような場で実践されていたのかについては、はっきりしたことは判っていない。那嵯はビル・ロビンソンの証言を紹介しながら、イングランドでボクシング・デーに興業として行われていたオールインと呼ばれる徒手格闘(ロビンソンによればCACCに拳による打撃を加えたような競技とされる)のようなプライズファイト(賞金試合)とランカシャースタイルの関連について推論を展開しているが[6]詳細は不明である[要出典]

アメリカにおける発展

[編集]

19世紀後半、ランカシャー地方からアメリカ合衆国に向かった移民たちにより、ランカシャースタイルはアメリカ合衆国に伝播することとなった。1880年代には既にアメリカンCACC王座なるタイトルも存在していた。この時期の著名なレスラーとしてトム・コナーズやジョー・アクトンが挙げられる。特にコナーズはカラー・アンド・エルボー・スタイル[注 1]の選手であったマーティン・バーンズにランカシャースタイルの技術を伝えたことで、20世紀のプロレスリングに大きな影響を与えたとされる。バーンズは現役引退後、コーチとして数多くのレスラーを育てたが、その中にはフランク・ゴッチなど強豪選手も含まれていた。那嵯は、この時期のアメリカにおいてカラー・アンド・エルボー・スタイルやグレコローマンスタイル柔術などの技術がランカシャースタイルと混淆したと考えている。カール・ゴッチはこの時期のアメリカにおけるCACCをアメリカンキャッチと呼んでいる[7]

イングランドにおける展開

[編集]

前節で見た「アメリカンキャッチ」は、20世紀初頭にジャック・カーキークらによってイングランドに持ち込まれ、広範な人気を博すこととなった。既にグレコローマンスタイルのトップレスラーであったジョージ・ハッケンシュミットが新たにCACCの技術を学び、CACCルールでの試合に臨んだとのエピソードも伝えられている。しかし、この時期のイングランドにおけるCACCの試合は関節技を用いないものが主流であった。ちなみに1908年には前田光世ロンドンにおいてCACCのトーナメント大会に参加している。こうした状況を変えたのが、日本出身で不遷流の技術を持つ[8]柔術家、谷幸雄1880年から1950年)である。谷は1899年にイングランドに渡ると1910年代中頃までCACCのレスラーたちと賞金をかけた柔術の試合を行い、1918年にロンドンで柔術の道場を開いた。谷がもたらした柔術の技術の一部はCACCにも取り入れられたと推測されている。逆に前田たちの手により欧州各国や中南米、ブラジルなどへ普及された柔術は、純然たる古来のものから姿を変え、CACCなどレスリングの技術も取り入れられた新しい柔術スタイルであった可能性も示唆している。また、谷による柔術の試合の影響もあり、CACCにおける関節技の試合での使用が再び解禁されたのではないかとの見方も提出されている。アメリカの著名なプロレス史家のマーク・ヒューイットは「CACCと柔術は、片方が一方的に与え続ける親子の関係ではなく、互いの長所を分かち合う兄弟のような関係」と例えている[9]

ビリー・ライレー・ジム

[編集]

こうしてCACCはイングランドのプロレスリングの中に確固たる地位を築いたが、中でも後進に大きな影響を与えた選手がビリー・ライレー英語版である。ライレーは第2次大戦中には既にウィガンにビリー・ライレー・ジム、通称「スネーク・ピット・ジム」というレスリング・ジムを開設しており、同ジムはジョージ・グレゴリーやビル・ロビンソンカール・ゴッチ[10]ダイナマイト・キッドといった選手を輩出した[11]

日本における受容

[編集]

日本のプロレスラーがCACCの技術を受容する過程において大きな影響力を持ったのが、カール・ゴッチであった。ゴッチは1950年代にウィガンのビリー・ライレージムでCACCを学んだ後、1959年モントリオールで活動し、10月よりオハイオ州に転戦[12]。ゴッチは力道山死後の1967年から1969年にかけて、日本プロレスのコーチとして招聘されている。ゴッチはその後も新日本プロレスでコーチ活動を続け、アントニオ猪木木戸修藤波辰巳藤原喜明前田日明西村修船木誠勝鈴木みのる石川雄規らを指導した。ゴッチの教え子達は特にCACCの技術に拘りを持ち、前田は1984年UWFを、船木、鈴木は1993年パンクラスを立ち上げ、藤波、西村はドラディションを主宰するなどそれを前面に押し出した活動を継続している。また、ビル・ロビンソン1969年から1970年にかけて国際プロレスの契約選手として日本に滞在した他、1999年からは再び日本に移住し、宮戸優光と共に高円寺のレスリングジム「U.W.F.スネークピットジャパン」のコーチとしてCACCの技術を教えていた。

名称

[編集]

アマチュアレスリングのフリースタイルもかつては正式名が「キャッチ・アズ・キャッチ・キャン・スタイル」であった。別名が「フリースタイル」であった。オリンピックにおいては1936年ベルリンオリンピックまでである。これでは長いので[13]1948年ロンドンオリンピックからは正式名が「フリースタイル」となった[5]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ アイルランド島の民俗レスリングで、「ランカシャースタイル」同様、現代のプロレスリングの源流の一つとされる。現代のプロレスリングの基礎的な技術の一つであるロックアップカラー・アンド・エルボーとも呼ばれる。

出典

[編集]
  1. ^ a b 那嵯 pp50 - 51
  2. ^ 庄司彦雄、山本千春『レスリング三省堂、日本、1931年11月9日、67-69頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1215356/55。「プロフェッショナル・レスリング規定」 
  3. ^ a b "The Art of Wrestling" - ニューヨーク・タイムス、1898年1月23日、2010年5月22日閲覧。
  4. ^ Burns
  5. ^ a b 八田一朗レスリング』(初版)旺文社、日本〈旺文社スポーツ・シリーズ〉、1953年12月20日、13頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2466735/11。「レスリングの歴史」 
  6. ^ 那嵯 p52
  7. ^ 那嵯 pp52 - 53
  8. ^ 1920年に講道館の段位取得
  9. ^ 那嵯 pp54 - 55
  10. ^ カール・ゴッチは1951年から1959年までウィガンを本拠地としていたとされるが、斎藤文彦はカール・ゴッチが関節技の技術の基礎を学んだのは、この時期であったと断定している(斉藤文彦『みんなのプロレス』ミシマ社、2008年、113-114ページ)。
  11. ^ ただし、キッドに関してはレスリングを始めた当初に短期間ライレージムへ通った事があったという程度で、その他のレスラーと比較すればその関係はやや希薄である。
  12. ^ それまでカール・クラウザーと名乗っていた彼が「カール・ゴッチ」のリングネームを使用するようになるのはこの時で、オハイオ州のプロモーターであるアル・ハフトの考案である。「ゴッチ」のファミリーネームは前出のフランク・ゴッチのそれを流用したもの(斉藤 前掲書 p115)
  13. ^ 八田一朗種目めぐり レスリングとその強化」『東京都オリンピック時報』第2巻第3号、東京都オリンピック準備局、1961年10月、20頁。 

外部リンク

[編集]