コーンウォール伯爵(コーンウォールはくしゃく、Earl of Cornwall)は、イングランド貴族の爵位。ノルマン・コンクエスト以降数度創設され、いずれも現存しない。1337年以降はコーンウォール伯爵の代わりにコーンウォール公爵位が創設された。
ウィリアム征服王に仕えたブリアン・ド・ブルターニュ(c.1042–bef.1086)はコーンウォールに領地を授けられたため、コーンウォール伯爵とされることが多い[1]。彼は1075年の三伯の乱で失脚し、コーンウォール伯爵位も失ったとされる[1]。
ウィリアム征服王の異母弟モルタン伯爵ロベール(c.1031–c.1095)はウィリアム征服王によるノルマン・コンクエストに参加し、コーンウォール伯領のほぼすべてを授けられたため、モルタン伯爵の称号しか使わなかったものの一般的にはコーンウォール伯爵ともされる[2]。その息子であるモルタン伯爵ギヨーム(bef.1084–aft.1140)はヘンリー1世に対して反乱を起こしたが、1106年のタンシュブレーの戦いで敗北し、爵位も剥奪された[3]。
ブリアン・ド・ブルターニュの弟の息子にあたる初代リッチモンド伯爵アラン(bef.1100–1146)は1140年にスティーブン王によりコーンウォール伯爵に叙されたとされる(ただし、J・ホレス・ラウンドなどによる異論が存在する)[4]。もっとも、『完全貴族要覧』によればアランは翌年初にコーンウォール伯爵位を取り上げられている[4]。
ヘンリー1世の庶子レジナルド・ド・ダンスタンヴィル(c.1110–1175)はコーンウォールの大地主の娘と結婚したのち、1141年4月ごろにコーンウォール伯爵に叙されたが、息子がおらず、その死とともに爵位が王領に戻された[4]。
ジョン欠地王の次男リチャード(1209–1272)は1227年8月21日にコーンウォール伯爵の称号を使用しており、その直前に称号を与えられたとみられる[5]。2代伯爵エドマンド(1249–1300)は息子をもうけず、その死をもって爵位が廃絶した[6]。
ガスコーニュ出身の騎士ピアーズ・ギャヴィストン(c.1284–1312)は1307年8月6日にコーンウォール伯爵領を与えられ、1308年1月19日にはコーンウォール伯爵としてイングランド議会に招集された[7]。ピアーズは妻との間で娘しかもうけず、その死とともに爵位が王領に戻された[8]。
エドワード2世の次男ジョン・オブ・エルサム(1316–1336)は1328年10月にコーンウォール伯爵に叙されたが、1336年に子供をもうけないまま死去、爵位は廃絶した[9]。
エドワード3世の長男にあたるエドワード黒太子(1330–1376)は1333年にチェスター伯爵、1337年にコーンウォール公爵に叙された[9]。以降「コーンウォール」の爵位名は公爵に移行した。