ゴング GONG | |
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イスラエル・テルアビブ公演(2009年10月) | |
基本情報 | |
別名 | ピエール・ムーランズ・ゴング (1976年 - 1988年) |
出身地 | フランス パリ |
ジャンル |
カンタベリー・ロック サイケデリック・ロック スペース・ロック プログレッシブ・ロック ジャズ・ロック フュージョン |
活動期間 | 1967年 - 現在 |
レーベル |
BYGレコード ヴァージン・レコード EMI アリスタ・レコード Celluloid Records One Eyed Salmon Records Mister E G-Wave Snapper Music ほか |
公式サイト |
planetgong |
メンバー |
カヴース・トラビ (Vo/G) ファビオ・ゴルフェッティ (G) デイヴ・スタート (B) イアン・イースト (Sax/Fu) チェブ・ネトル (Ds) |
旧メンバー |
デヴィッド・アレン (Vo/G) ジリ・スマイス (Vo) ディディエ・マレルブ (Sax/Fu) スティーヴ・ヒレッジ (G) ピエール・ムーラン (Ds) 河端一 (G) ほか 本文参照 |
ゴング(Gong)は、フランスを拠点とするプログレッシブ / スペース・ロックバンド。
元「ソフト・マシーン」のデヴィッド・アレンを主宰に結成。サイケデリック・ロックを原点に様々なスタイルに変化し、多くの派生グループが誕生した。
1970年代以降からメンバーの出入りが激しいのが特徴で、創設者のデヴィッド・アレン自身が1975年に脱退。残されたメンバーはピエール・ムーランを中心にバンドを再編成し、後に「ピエール・ムーランズ・ゴング」と改名して1988年まで活動した。
脱退後のアレンは「プラネット・ゴング」「ニューヨーク・ゴング」などを結成。妻ジリ・スマイスは「マザー・ゴング」を結成。他にも、元ピエール・ムーランズ・ゴングのメンバーによる「ゴングジラ」、Acid Mothers Templeと合体した「アシッド・マザーズ・ゴング」など、ゴング名を冠するバンドがいくつも誕生し『ゴング・グローバル・ファミリー』と総称されている。後年はアレンにより本家のゴングは再興され、アレンの死後も活動を継続している。
1967年、カンタベリー系ロックバンド「ソフト・マシーン」のメンバーとして活動していたデヴィッド・アレンは、ツアー先のフランスからイギリスに再入国できなかったため(麻薬の保持等の理由が取り沙汰されたが、実際はビザの期限切れが理由だった)、そのままバンドを離脱。フランスに留まってソロ活動を開始し、並行して現地の仲間とロックバンド「ゴング」の原形を作る。後に妻となったジリ・スマイス[注 1] とは、ソフト・マシーン時代に開催したポエトリー・パフォーマンスで出会った。
1968年のフランス五月革命において、アレンとスマイスは学生側に加担するパフォーマンスを行った。この一件で公安警察に追われる身となり、バンドは崩壊。スペインのマヨルカ島デヤに潜伏し、ここで盟友となるディディエ・マレルブと知り合い意気投合。1969年8月、フランスに戻ってバンドを再興し活動を再開した。
同年にフランスのBYGレーベルからデビュー・アルバム『マジック・ブラザー』を発表。1971年、アレンのソロ・アルバム『バナナ・ムーン』発表を挟み、セカンド・アルバム『カマンベール・エレクトリック』を発表。このアルバムからサウンド面での飛躍的な進歩を遂げ、次作への雛形となった。
1972年、グラストンベリー・フェスティバルに出演。その年のイギリスツアーの後、英ヴァージン・レコードと契約する。
元来のヒッピー思想家でもあるアレンは、宇宙的幻想をコンセプトにした創作に取り掛かり、1973年から1974年にかけてラジオ・グノーム・インヴィジブル(The Radio Gnome Invisible 見えない電波の妖精の物語)三部作となる『フライング・ティーポット』『エンジェルス・エッグ』『ユー』の各アルバムを発表[1]。
ラジオ・グノームとは、ゴング惑星からフライング・ティーポットに乗ってやってきた妖精(宇宙人)であり、テレパシーを駆使し地球人に向けて、海賊ラジオ放送を行っているという設定を基にした連作である。
バンドは三部作の最終アルバム『ユー』の時点でひとつのピークに到達し、1975年までにアレン、スマイス、スティーヴ・ヒレッジ等の中核となっていたメンバーがグループを離脱する。
1976年、バンドは残留したドラマーのピエール・ムーランを中心に再編成する。アレン時代のサイケデリック色を一掃し、ニューエイジやアンビエントなどの要素を取り入れたジャズ・ロック/フュージョン・バンドとして継続。アラン・ホールズワースらの著名なミュージシャンも協力した。
アリスタ・レコードに移籍した1979年からは「ピエール・ムーランズ・ゴング」(Pierre Moerlen's Gong)と名義を変更し、1988年まで活動。
2000年代に本家アレン派とは別路線として再興し、2002年に録音したアルバム『ペンタナイン』を2004年にリリース。しかし翌年5月、ピエール・ムーランの急死により活動は終了[2]。2010年に、晩年に携わったメンバーが追悼作品として制作した最後のアルバム『Tribute』を発表している。
なお、Moerlenという名は弟のブノア(本人の発音では『ベノワ』)の発音では『メルレン』に近い[3]。
オリジナル・リーダーのデヴィッド・アレンは、1990年代以降からゴング・ファミリーの再編を繰り返しながらゴングを復活させる。
1992年、アレン主導体制としてはアルバム『ユー』以来、18年ぶりとなるアルバム『Shapeshifter』を発表。
2009年には往年のメンバーが再集結したアルバム『2032』をリリース。2014年にはアルバム『I See You』を発表した[4]。
その後、アレンは癌を患うようになり、手術を行うも甲斐なく再発。2015年3月に他界する[5]。残ったメンバーはアレンの遺志を引き継いでバンドを継続した。
かつての主要メンバー スティーヴ・ヒレッジやディディエ・マレルブらも協力し、アレンの追悼となるアルバム制作に着手。しかし翌2016年8月、その完成に合わせたかのように未亡人ジリ・スマイスも病死[6]。出来上がったアルバムのタイトルは『リジョイス! アイム・デッド!』(喜べ! 私は死んだ!)と付けられ、翌月に発表した[7]。
アレン夫妻亡き後、バンドは新生ゴングとして改めて活動を継続する。2019年、現ラインナップのみのアイデアを反映させた事実上最初のアルバム『ザ・ユニヴァース・オルソー・コラップス』を発表。ゴングの原点に回帰したサイケデリック・ロックを展開した[8]。
1995年、デヴィッド・アレンが別プロジェクトの形で来日を予定していたが、諸事情でキャンセル。しかし翌1996年6月に母体の「ゴング」を引き連れて、無事初来日を果たす。以降、数多く来日するようになり、早くも翌年9月に再来日している。
2003年からは、日本のサイケ・ロックバンド「Acid Mothers Temple」のリーダーである河端一と共演し、翌年にアルバム『Acid Motherhood』を共作。その後、バンド自体が合体した「アシッド・マザーズ・ゴング」を企画し、同名義で来日公演を開催[9]
2009年には「フジロックフェスティバル」に参加[10]。続けて2012年にも来日公演を開催した[11]。アレンは、その他のプロジェクト名義でも来日している。
2018年、アレン亡き後の体制で初の来日。旧メンバー スティーヴ・ヒレッジをゲストに迎え、格式ある会場「ビルボードライブ」にて公演を開催した[12]。
※2019年4月時点
1973年5月、リーダー デヴィッド・アレンとジリ・スマイスが一時離脱中だった期間に、残されたメンバーが立ち上げたバンド。ここでピエール・ムーランらが加入した。
ゴング脱退後のデヴィッド・アレンが、妻・ジリ・スマイスと共に1977年に現場復帰して、パンク系バンド「ヒア & ナウ」とコラボした企画。
1978年、ゴングの女性ボーカリスト ジリ・スマイスのソロプロジェクトから発展した、スマイス主宰のグループ。2016年、スマイスの死去により消滅した。
1978年にデヴィッド・アレンがアメリカ・ニューヨークで、ベーシストのビル・ラズウェル等と共に結成したプロジェクト。
1988年のピエール・ムーランズ・ゴング活動停止後、デヴィッド・アレンが結成したゴング派生プロジェクトのひとつ。1990年代のアレンが主導する、ゴング復活の足掛かりとなった。
1994年、ピエール・ムーランズ・ゴングの元メンバー達が結成し、同グループの音楽スタイルを受け継いだバンド。バンド名は、日本の怪獣ゴジラ(Godzilla)との造語。
2003年から、ジリ・スマイスとデヴィッド・アレンに息子オーランド・アレン等を加え、アシッド・マザーズ・テンプルの河端一・吉田達也らとコラボレーションした、ゴング名義のプロジェクト。
ピエール・ムーランズ・ゴング元メンバーが集結したプロジェクト。元はハンスフォード・ロウが率いていたユニットHR3(ハンスフォード・ロウ・トリオ)から発展し、1978年のアルバム『Expresso II』から名付けた。
デヴィッド・アレン ソロ
(*はピエール・ムーランズ・ゴング名義)