ジョン・ダイクストラ John Dykstra | |||||||||
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本名 | John Charles Dykstra | ||||||||
生年月日 | 1947年6月3日(77歳) | ||||||||
出生地 | アメリカ合衆国 カリフォルニア州ロングビーチ | ||||||||
職業 | 1971年 - 活動中 | ||||||||
著名な家族 | クロエ・ダイクストラ(娘) | ||||||||
主な作品 | |||||||||
『サイレント・ランニング』 『スター・ウォーズ』 『スター・トレック』 『スペースバンパイア』 『バットマン』シリーズ 『スチュアート・リトル』 『スパイダーマン』シリーズ 『ハンコック』 『イングロリアス・バスターズ』 『X-MEN』シリーズ 『ジャンゴ 繋がれざる者』 『GODZILLA ゴジラ』 『ヘイトフル・エイト』 | |||||||||
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ジョン・チャールズ・ダイクストラ(John Charles Dykstra, 1947年6月3日 - )はアメリカの特撮マン(SFXスーパーバイザー)であり、映画製作におけるCG(コンピュータグラフィックス)の使用を発展させた先駆者である。カリフォルニア州ロングビーチ出身。
インダストリアルデザインを学んだ後、映画『サイレント・ランニング』の模型製作をダグラス・トランブルとともに行った。映画『スター・ウォーズ』製作に向けて特撮スタッフを探していたジョージ・ルーカスは、ダグラス・トランブルを誘ったが、トランブルはダイクストラをルーカスに紹介した。ダイクストラはILMにおいてDykstraflex(コンピュータによるモーション・コントロールカメラのシステム)の開発の中心的な役割を果たした。これは数々の映画においてSFXの助けとなった。このシステムは、比較的低コストによって実現された。というのも、中古のビスタビジョンのカメラと、既製品のマイクロプロセッサーによって可能だったからである。
しかしながら、ジョージ・ルーカスは後に「このカメラ・システムの開発に多くの費用が費やされすぎた」「SFXチームは自分が望んだ全ショットを完成させなかった」と不満を言い、ルーカスとダイクストラの間には緊張が走った。しかし『スター・ウォーズ』が公開され、ダイクストラはアカデミー賞視覚効果賞及びアカデミー特別業績賞(視覚効果)を受賞し、地位を確立した。
ダイクストラはその後アポジー社(Apogee, Inc.)を設立し、テレビドラマシリーズ『宇宙空母ギャラクチカ』(1978年 - 1979年)の特撮を担当した。同作品を製作したユニバーサル映画とジョージ・ルーカスが法的紛争に突入したため、ダイクストラは20世紀フォックス映画『スター・ウォーズ/帝国の逆襲』の製作に誘われなかった。代わりに、ダイクストラは映画版『スタートレック』の特撮をトランブルと共同で担当することとなり、82年には『ファイヤーフォックス』にも参加している。しかし80年代中盤の『スペースバンパイア』、『スペースボール』、『花嫁はエイリアン』などの映画に携わるものの大規模な視覚効果製作には恵まれず、90年代にはアポジー社も解散してしまう。『バットマン フォーエヴァー』、『バットマン & ロビン Mr.フリーズの逆襲』の視覚効果監修の後『スチュアート・リトル』がきっかけでソニー・ピクチャーズ・イメージワークスに入り、アカデミー視覚効果賞ノミネートという業績をあげた。ソニーでの次作『スパイダーマン』、『スパイダーマン2』の両作品でVFXデザイナーを務め、『スパイダーマン2』において彼の功績が認められ、再びアカデミー賞でアカデミー特別業績賞(視覚効果)を受賞した。
このほか、アポジー社が視覚効果を手掛けた『ネバーセイ・ネバーアゲイン』(1983)、『グレムリン2 新・種・誕・生』(1990)、ILMと映像製作を分担した『スペースボール』(1987)、『ゴーストバスターズ2』(1989)、『ダイ・ハード2』(1990)などがある。
賞 | 年 | 部門 | 作品名 | 結果 |
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アカデミー賞 | 1977[1] | 視覚効果賞 | スター・ウォーズ | 受賞 |
1979[2] | スタートレック | ノミネート | ||
1999[3] | スチュアート・リトル | ノミネート | ||
2002[4] | スパイダーマン | ノミネート | ||
2004[5] | スパイダーマン2 | 受賞 | ||
英国アカデミー賞 | 2002[6] | 特殊視覚効果賞 | スパイダーマン | ノミネート |
2004[7] | スパイダーマン2 | ノミネート |