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ジョージ 川口 | |
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![]() 1960年 | |
基本情報 | |
出生名 | 川口 譲治[1] |
生誕 | 1927年6月15日[1] |
出身地 |
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死没 | 2003年11月1日(76歳没)[1] |
学歴 | 陸軍航空士官学校卒 |
ジャンル | ジャズ |
担当楽器 | ドラムス |
ジョージ 川口(ジョージ かわぐち、1927年6月15日 - 2003年11月1日[1])は日本のドラム奏者。 本名:川口 譲治(かわぐち じょうじ)[1]。
「ジャズドラムスの神様」と呼ばれた。
サックス奏者・川口養之助の次男[2]として、京都府京都市に生まれる。6歳の時、単身赴任していた父に招かれ、一家で満洲の大連に渡った。満洲で見た音楽映画『聖林ホテル』におけるジーン・クルーパのドラムプレイに魅了され[1]、ドラマーを志す。
旧制大連市立実業学校工科[1]、満洲飛行学校[3]を経て、陸軍航空士官学校に学び[要出典]、終戦時は陸軍少年飛行兵として訓練を受けていた。
復員後、父のバンドに参加したのち、1947年に引き揚げ。同年三木鶏郎バンドに参加。米軍クラブなどで演奏活動を始め、1949年、東松二郎とアズマニアンやレイモンド・コンデとゲイ・セプテットに参加し、若手ドラマーとして注目されるようになる[1]。
1953年に松本英彦、中村八大、小野満とともにジャズコンボ「ビッグ・フォア」を結成。ジャズブームの火付け役となり、大衆的人気を獲得した[1]。のちに越路吹雪のバンド「ロイヤルポップスオーケストラ」や、自身のリーダーバンド「ジョージ川口&スーパーバンド」のドラマーとしても活動した。
亡くなる3日前までコンサートに出演していたが、10月31日に自宅で倒れ、2003年11月1日、脳出血のため亡くなった。満76歳没。墓所は多磨霊園。
没後、自身のバンドであった「ニュービッグフォー」は、息子の川口雷二が後を継いでいる。
川口は、日本のジャズメンの中でも極め付きの「ほら吹き」として知られた。彼の奇想天外な虚言を真に受けたライターが、ほらをそのままメディアに記し、 日本ジャズ史として記してしまった例もあるとされる。
以下は「ほら吹きジョージ」の珍エピソードの一例。
あまりにほらが過ぎて、誤った経歴を紹介されることも度々だったが、1958年の松山市公民館で行なわれた白木秀雄とのドラム合戦の最中、会場で殺人事件が起きたというのは事実である。当時の地方興行は地元のヤクザの一家が取り仕切るのが常識だったが、客の中に仕切りをしていた組と対立する組の人間が潜んでおり、コンサートを荒らそうと目論んでいた。ステージで演奏が始まると同時にその組員はステージに乗り込もうとしたが、警備をしていた組員らに囲まれ、あっという間に刺し殺されてしまった。しかし当の川口と白木は勝負に熱中しておりまったく気付かなかった。これが俗にいう「ドラム殺人事件」である。