テオフィル・アレクシス・デュラン(Théophile Alexis Durand、1855年9月4日 - 1912年1月12日)はベルギーの植物学者である。
ベルギーのブリュッセル首都圏地域のサン=ジョス=タン=ノードに生まれた。リエージュ大学で薬学を学んだ後、スイスに旅し、スイスの植物学者、アンリ・ピティエ(Henri François Pittier)と親しくなった。ピティエとスイスの植物を研究した。ピティエが1887年にコスタリカに渡ると、コスタリカの植物標本はデュランに送られ[1]、1907年に共著で"Primitia Flora Costaricencis"(『コスタリカの主な植物』)を発表した。1879年から ブリュッセルのベルギー国立植物園で働き、1901年にはフランソワ・クレパンの後を継いで園長になった。1910年にブリュッセルで開かれた国際植物学会議 (International Botanical Congress)の会長を務めた[2]。
娘の植物画家、エレーヌ・デュランと"Sylloge Florae Congolanae" (1909)を発表した[2]。キューガーデンの植物目録、"Index Kewensis" (第1回増補版 1901-1906)の作成に貢献した[1]。
アサ科の植物の種、Celtis durandiiなどに献名されている。