トキワ荘 | |
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情報 | |
用途 | 集合住宅 |
階数 | 地上2階 |
開館開所 | 1952年 |
所在地 |
〒171-0052 東京都豊島区南長崎三丁目16番6号 |
座標 | 北緯35度43分26.7秒 東経139度41分17.9秒 / 北緯35.724083度 東経139.688306度座標: 北緯35度43分26.7秒 東経139度41分17.9秒 / 北緯35.724083度 東経139.688306度 |
備考 | 1982年に解体 |
トキワ荘(トキワそう)は、東京都豊島区南長崎三丁目[1](住居表示16番6号、完成当時の住所表記は椎名町五丁目2253番地)に、1952年(昭和27年)から1982年(昭和57年)にかけて存在した木造2階建アパート[1]。
手塚治虫[2]、藤子不二雄、石ノ森章太郎、赤塚不二夫ら著名な漫画家が居住していたことで知られ、漫画の「聖地」となったことから、豊島区によって復元施設「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」が同区の南長崎花咲公園内に建設された[3][4]。
上棟式は1952年(昭和27年)12月6日。老朽化により1982年(昭和57年)11月29日に解体された。跡地は2020年(令和2年)時点、日本加除出版の社屋となっている[5]。賃貸された部屋のうち2階部分は十室で、全て四畳半(押入れと入り口部分のスペースを除く)。その他、共同の調理場、トイレなどが存在した[6]。
手塚治虫は1952年(昭和27年)に上京して最初は東京都新宿区四谷の八百屋の2階に下宿していたが、やがて昼夜を問わぬ編集者の出入りの激しさについて八百屋の主人から苦情を言われるようになった。この時、手塚は、学童社の加藤謙一の次男・加藤宏泰から、宏泰の住む新築アパート「トキワ莊」へ入居するように誘われて、1953年(昭和28年)の初頭に住人となった[7]。これを皮切りに、学童社が、自社の雑誌に連載を持つ漫画家の多くをトキワ荘へ入居させた。最も多い時期には7 - 8名の漫画家が居住し、またその仲間の漫画家も出入りするようになったため、「マンガ荘」というニックネームまで付けられた[8]。
才能ある漫画家たちがトキワ荘に集まった背景には、寺田ヒロオの「空いた部屋には若い同志を入れ、ここを新人漫画家の共同生活の場にしていきたい」「新人漫画家同志で励まし合って切磋琢磨できる環境をつくりたい」との思いがあった。このほかに「漫画家が原稿を落としそうになった際、他の部屋からすぐに助っ人を呼べる環境が欲しい」という編集者側の思惑と、「他の漫画家の穴埋め原稿でもいいから自分の仕事を売り込む機会が欲しい」という描き手側の利害の一致もあったとされている[9]。
それら若手漫画家達の多くは後に著名になり、その漫画家達により同じアパートに住んでいたという事実が世間にも伝えられるようになった。なお、トキワ荘への入居と仲間入りに際しては、メンバーたちにより、
といった基準で厳格な事前審査が行われていたとされる[10][注釈 1]。こうした背景を考えると、トキワ荘に居住した(居住できた)のは単なる若手漫画家ではなく、選び抜かれた漫画エリート集団であり、トキワ荘から多数の一流漫画家が世に出たのは偶然ではなく必然だったと指摘されている[11]。
近所に「松葉」という中華料理店があり、藤子不二雄がラーメンの出前を取るなど[12]、住人らが頻繁に利用していた。この店のラーメンは、藤子不二雄の作品に登場する「小池さん」の設定に影響したとされる。松葉は現在も営業を続けている。ワカコ酒Season4で取り上げられた[13][14]。
また、1955年(昭和30年)5月に結成された新漫画党のメンバー、すなわち寺田ヒロオ(総裁)、藤子不二雄(藤本弘、安孫子素雄)、鈴木伸一、森安なおや(1957年〈昭和32年〉に除名処分を受ける)、つのだじろう、石森章太郎、赤塚不二夫、園山俊二は、トキワ荘に当時かかっていたカーテンに各自、結成を祝って漫画を描いた。現在そのカーテンは、おもちゃコレクター・鑑定士の北原照久の所有となっており、漫画界の「釈迦の衣」と呼ばれている。
雑誌『COM』では1969年(昭和44年)から翌1970年(昭和45年)にかけ、各漫画家たちがトキワ荘に住んでいた頃の状況を自伝として描いた(後にまとめられ、『トキワ荘物語』として翠楊社より1978年(昭和53年)に出版。以後も再刊、再編集)。さらに1970年代からは『週刊少年キング』等に連載された藤子不二雄(藤子不二雄Ⓐ)の『まんが道』や、つのだじろうの『その他くん』などによってトキワ荘のエピソードが語られ、後進の漫画家、或いは漫画ファンに知られるようになった。その結果、トキワ荘自体も著名な存在となり、既に各漫画家が全員退出してしまった時期においても見学者がはとバスで訪れる[15]といった聖地的な扱いをされるに至った。解体前の1978年(昭和53年)には翠楊社より『トキワ荘物語』が刊行され、解体が決まった1981年(昭和56年)、手塚治虫を中心としたかつての居住者らが集まって同窓会が開かれ、その模様はNHK特集『わが青春のトキワ荘〜現代マンガ家立志伝〜』(NHK)として5月25日に放送、ビデオも発売された。この時、建物に残っていた襖で寄せ書きが作成された。これは『驚き桃の木20世紀』(テレビ朝日)で公開された[注釈 2]。また、10月3日にはフジテレビでテレビアニメ『ぼくらマンガ家 トキワ荘物語』(脚本・辻真先、監修・小池一夫、監督・鈴木伸一、キャラクターデザイン・石森章太郎)が放映された。さらに1996年(平成8年)には市川準監督、本木雅弘主演で映画『トキワ荘の青春』が公開されている。
トキワ荘自体は解体された1982年(昭和57年)の12月に新築され、バス・トイレ付きのアパートになった。そして赤塚不二夫直筆の「トキワ荘」表札が掲げられていた。しかし、バブル景気の最中に地上げに巻き込まれて更地化した。現在は日本加除出版の新館社屋となっている[5]。
トキワ荘の解体を聞きつけて取材した新聞記者に手塚は、かつて住んでいた2階14号室の天井板に『リボンの騎士』のサファイアの絵と自画像を描いて贈った。これは警視庁記者クラブに保存された後[16]、2020年(令和2年)2月26日、豊島区に寄贈された[17]。
太字は存命者。
NPO法人NEWVERYが運営する漫画家を目指す若者にシェアハウスを貸し出し、プロデビューをサポートする事業。参加者は、漫画関係の勉強会の受講や、仕事の斡旋・仲介を受けることができる。中には漫画家の甲斐谷忍や樹崎聖が指導を行うメンター荘もある。主な出身者は、カメントツ(『こぐまのケーキ屋さん』)、中川学(『くも漫。』)、雲母坂盾(『ボーンコレクション』)、一二三(『四十七大戦』)、西修(『魔入りました!入間くん』)、西村ツチカ、窓ハルカら。120名がプロデビューしている[30]。
南長崎地域の町会や商店会が中心となって進めるトキワ荘の地域活性プロジェクト。トキワ荘のあった街である南長崎地域では豊島区との協働の元、トキワ荘の「記憶」を地域文化として後世に繋げるため、様々な取り組みを行っている。
1999年に、若者を中心とする地元有志が記念館建設を呼びかける署名運動を始めた。一方でトキワ荘があったことを忘れたり、知らなかったりする地元住民も多く、跡地であることを偲ぶものも2007年まではなかった[1]。
2007年、豊島区立中央図書館が設けたトキワ荘の特集コーナーを見た豊島区議会議員が、トキワ荘跡に近い南長崎ニコニコ商店街の事業部長で時計店主だった小出幹雄に「地元は何もしないのか」と問いかけた。それに触発された同商店街が2007年夏、「『マンガの神様』達のルーツはここからであった」と書いた看板を設置。記念碑づくりをめざす実行委員会が商店街と区役所などの合同で発足し、2009年、豊島区がトキワ荘跡から約300メートル離れた南長崎花咲公園に記念碑「トキワ荘のヒーローたち」を建てた(後述)。寺田ヒロオに関する小冊子作製、水野英子を招いてのトークショー開催など「トキワ荘文化」の掘り起こしや研究も進めた[1](後述)。
2012年には跡地にモニュメントが、翌2013年にはトキワ荘通りに「お休み処」がつくられた。こうした活動の母体として、地元の町会、商店会と豊島区が2011年に「トキワ荘通り協働プロジェクト協議会」を設立。2016年に「としま南長崎トキワ荘協働プロジェクト協議会」へ改称した[31]。
地域住民と豊島区の協働で記念碑の建立が計画され、2009年3月にトキワ荘跡地近くに位置する豊島区立南長崎花咲公園において着工し、同年4月4日に完成した記念碑の除幕式が行われた[32]。
2012年4月6日には、トキワ荘の跡地(日本加除出版敷地内)に当時の建物をかたどった石造りのモニュメントが設けられ、除幕式が開かれた[33]。なお現在のトキワ荘跡地に通じる道路とモニュメントがあるのは、漫画などでよく描かれるトキワ荘の正面玄関側ではなく、裏口と非常階段があった側である[注釈 3]。
2015年度から豊島区はモニュメント制作を開始、トキワ荘に住んだ漫画家全11人分の記念碑を設置中である[34]。
豊島区がトキワ荘の情報発信のための拠点として整備した施設[37]。
2020年の東京オリンピックに間に合わせる形で、 豊島区が近くの南長崎花咲公園に、外観を復元した区立の施設「マンガの聖地としまミュージアム」(仮称)が2019年(平成31年)1月15日に着工され、「豊島区立トキワ荘マンガミュージアム」として2020年7月7日に開館した[3]。当初は3月22日に開館する予定だったが、新型コロナウイルス感染拡大防止のため延期となっていた。
内部は、当時の漫画家たちの仕事場が忠実に再現されるほか[38]、漫画の閲覧やアニメの上映スペースなどが設けられる。また、1階のマンガラウンジには、警視庁五方面記者クラブから寄贈を受けた「トキワ荘の天井板」のほか、ジオラマ作家山本高樹作のジオラマが特別展示されている[39]。これらの費用はふるさと納税による全国の漫画ファンからの寄付で賄われた[4]。
ミュージアム建設構想が動き出したのは2015年。外観や間取りの記録は当初ほとんどなかったが、トキワ荘解体を伝えた週刊誌の屋根を取り外した工事を撮った写真入り記事が見つかったことや、トキワ荘向かいにあった長屋の住人からトキワ荘の看板写真が寄せられたりしたことで、細部の再現が進捗した[1]。
警視庁目白警察署は、東長崎駅前交番をトキワ荘に似た外観に改築した(2019年3月開所)。豊島区が要請し、図面などを提供した[40][41]。
紫雲荘(しうんそう)は、トキワ荘と同じ豊島区南長崎にあるアパートで、赤塚不二夫が仕事場として借りていたことで知られる[42]。紫雲荘の建物は1959年築の2階建て[42]。豊島区では2011年から若手漫画家のためにトキワ荘の代わりとして紫雲荘への入居費用補助などの支援をする「紫雲荘活用プロジェクト」を実施している[33][42]。
東京都杉並区西荻窪(所在地は西荻南3丁目18-18)の木造廃アパートが、漫画家が集った「トキワ荘の西荻版」とされ「西荻トキワ荘」と呼ばれている。いしかわじゅんはエッセイ集『秘密の本棚』(2009年)でここを仕事場にしていたと記述し[49]、やまだないと『西荻カメラ』(2003年)には「いしかわじゅん・大友克洋が仕事場とし、江口寿史・泉昌之・岡崎京子・桜沢エリカ・よしもとよしともらが住んでいた」とある。
しかしいしかわじゅん自身が、2015年10月17日に本人のTwitterで「西荻トキワ荘」の実在そのものを否定している[50]。
わははは。西荻トキワ荘って、いつの間にかほんとに存在したことになっている。面白いからまあいいけど。
こうやって歴史は創られていくんだな。 — いしかわじゅん 、 いしかわじゅん Twitter (@ishikawajun) 、2015年10月17日