トミー・リッチ | |
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2013年 | |
プロフィール | |
リングネーム |
トミー・リッチ トミー・リチャードソン トーマス・リッチ ミスター・R |
本名 | トーマス・リチャードソン |
ニックネーム |
ワイルドファイヤー ザ・ビッグ・ドン |
身長 | 185cm[1] |
体重 | 105kg(全盛時)[1] |
誕生日 | 1956年7月26日(68歳) |
出身地 |
アメリカ合衆国 テネシー州 サムナー郡ヘンダーソンビル |
トレーナー |
ディック・スタインボーン トージョー・ヤマモト |
デビュー | 1974年 |
トミー・リッチ(Tommy Rich、本名:Thomas Richardson、1956年7月26日 - )は、アメリカ合衆国の元プロレスラー。テネシー州ヘンダーソンビル出身。
第59代NWA世界ヘビー級王者。ニックネームは "Wildfire"(野生の炎)。
1974年、ジェリー・ジャレットにスカウトされ、地元テネシーのNWAミッドアメリカ地区でプロレスラーとしてデビュー。以降1980年代を通し、テネシーのCWA、ジョージアのGCW、アラバマのSECWなど、南部の団体を主戦場に活動。ジョージアではオースチン・アイドル、マスクド・スーパースター、オレイ・アンダーソン、イワン・コロフ、アレックス・スミルノフ、バロン・フォン・ラシク、キラー・カーン、バズ・ソイヤー、ファビュラス・フリーバーズ、ザ・グレート・カブキなどトップクラスのヒールと流血の抗争を繰り広げ、アイドル系のベビーフェイスとして一時代を築いた[2]。
1981年4月27日、ジョージア州オーガスタでハーリー・レイスを破り第59代NWA世界ヘビー級王者となる。その4日後にはマリエッタでレイスにタイトルを奪還されたが、この記録はNWA世界王座史上の最短命記録であり、史上最年少での王座戴冠記録でもあった。マイケル・ヘイズがテレビ番組『WWE 24/7』で語ったところによると、この王座移動はNWAまたはレイスの許可なく、プロモーターの指示でレフェリーが早くカウントを取り勝利させたものだという[3]。
1983年2月、全日本プロレスに初来日し、ジョージア時代のカブキとの抗争を再現[4]。その後も度々来日し、ジャンボ鶴田と好勝負を残している(両者ともフライング・ボディシザース・ドロップを得意にしていた)。また、アメリカにおけるスタン・ハンセンの盟友として、プロレス専門誌の海外情報コーナーにも頻繁に登場した。1980年代後半には古巣のCWAに復帰し、旧敵オースチン・アイドルと組んでジェリー・ローラーと抗争(この抗争劇は、業界紙『レスリング・オブザーバー』において1987年の "Feud of the Year" に選ばれている)。1988年4月の来日時には、4月22日に川崎市体育館において、前日に負傷したジミー・スヌーカの代役として、ブルーザー・ブロディとのコンビで天龍源一郎&阿修羅・原(龍原砲)が保持するPWF世界タッグ王座にも挑戦している[5]。同年11月には全日本プロレスの世界最強タッグ決定リーグ戦にディック・スレーターとのコンビで出場した[6]。
1991年からWCWへも参戦し、1993年にはUSWA、1995年にはジム・コルネットのSMWで活動。この頃になると体重も増加し、ラリー・シャープを思わせる風貌・体型になり、かつての金髪アイドルのイメージを完全に払拭してヒールに転向した。1996年よりECWに登場し、ザ・ビッグ・ドン(The Big Don)のニックネームでイタリア系ユニットF.B.I.のマネージャーとしても活動[7][8]。
2000年にECWを離れプロレス界から引退したが、2006年よりインディー団体への単発出場を開始。かつてのライバル達との因縁の対決も再現しており、2007年5月15日にジョージアのAll-Star Championship Wrestlingにてマスクド・スーパースター、同年8月5日にクリーブランドのAll-Pro Wrestlingにてジミー・スヌーカと対戦した。2008年6月7日には、アトランタで行われた "NWA 60th Anniversary Show" にてアブドーラ・ザ・ブッチャーとノーコンテストの激闘を演じている[2]。2009年8月9日にはECWの影響下にあるJCWが主催した "Bloodymania" に登場、サブゥー対レイヴェン戦においてレイヴェンのマネージャーを務めた。