ニューポール 11
ニューポール11(Nieuport 11)は第一次世界大戦期、フランスのギュスターヴ・ドラージュが設計しニューポール社が生産した戦闘機である。1915年夏、ドイツの単葉戦闘機フォッカー アインデッカーが優勢であった西部戦線に登場し、活躍、いわゆる「フォッカーの懲罰」を終結させた機体の1つとして名高い[2]。「ベベ(Bébé)」の愛称で親しまれた。フランスの撃墜王、ギンヌメールやナンジェッセの乗機である。
ニューポール 11は基本的にニューポール 10を縮小・洗練し、単座戦闘機に特化させたものである。機体の特徴は一葉半(セスキプラン、sesquiplane)という下翼が小さく、複葉と単葉の中間を狙ったものである。80馬力のノーム・エ・ロームエンジンを搭載した小型の機体である。
この形式に特有の欠点は、よほど強靭に造られない限り、強い力がかかると翼弦の狭い下翼がねじれて曲がってしまいやすいということであり[3]、これはV型支柱を備えたすべてのニューポール機と、同様の主翼デザインを採用したドイツのアルバトロス D.III、V、Vaに共通する問題だった[4]。
ニューポール 11は、フランス航空部隊、イギリス海軍航空隊のほか、オランダ、ベルギー、ロシア、イタリアの航空部隊に供給された。またイタリアのマッキ社によって646機がライセンス生産された[1][4]。11の実戦での使用期間は短いものだったが、以降の一連のニューポール製V支柱型単座戦闘機の最初のものであり、その系列ではニューポール 17、24bisおよび27が最も有名である。
ニューポール11は1916年1月にフランスの前線に到着し、その月のうちに90機が任務に就いた。
この小型軽量の一葉半戦闘機は、ほぼすべての局面でフォッカー単葉機を圧倒した。数ある特色の中でも本機は横操縦のために補助翼を持っており、フォッカーの時代遅れのたわみ翼方式とは対照的だった。また昇降舵はモラーヌ式の釣り合い方式でなく、従来型の水平尾翼に付けられており、より容易に精確な飛行ができた。フォッカーの成功は主にプロペラと同調した機関銃によってプロペラ回転面を通して前方に発射できた点によるが、当時、連合国側は同様のシステムを備えておらず、ニューポール 11のルイス機銃またはホチキス機銃は上翼に取り付けられてプロペラの上から前方に向けて発射されるようになっており、類似した効果を得ていた。この方式には銃が詰まったときの対応や飛行中の再装填に関して問題があったが、この問題はイギリス軍においてはフォスター銃架の発明によって、そしてフランス軍では、17以降のニューポール戦闘機に採用されることになるアルカン同調装置の採用によって解決された[5]。
1916年2月のヴェルダンの戦いにおいてニューポール 11は敵に大きな損失を出さしめ、それはドイツの戦術に急進的な変革を強いることとなった[1]。
一部のニューポール 11や16は戦場において支柱にル・プリエールロケット(Le Prieur rocket)を取り付けるように改造された。これは観測気球や飛行船への攻撃を目的としたものである。
1916年3月までに「ベベ」は改良型のニューポール 17に交替した[1]。17はフランス軍飛行隊のほとんどでは1917年早くにSPAD S.VIIに交替し、イギリス軍の飛行隊ではその年の後半にS.E.5aに交替した[1][4]。それ以降のニューポール単座機は練習機として広く使用された[4]。
1916年に、ニューポール 11のエンジンを110馬力(92 kW)のル・ローヌ9J(英語版)ロータリーエンジンに換装した改良型がニューポール16として登場した[2]。外見上の相違は開口部をより大きく取った「馬蹄形」カウリングであり、またパイロットのヘッドレストフェアリングが変更されているものもあった[4]。後期型は胴体機首上部にプロペラ同調式のヴィッカース機関銃を装備したが、この構成の場合には、重い9Jエンジンと大型のヴィッカース機銃の組合せによって機首が明らかに重くなりすぎ、操縦性を損ねていた[4]。次の派生型である、わずかに大型化したニューポール 17 C1は、最初から重いエンジンを前提に設計され、16の重心問題を解決するとともに性能の向上を実現した[5]。
出典: "The Worlds Greatest Aircraft"
諸元
性能
武装