ハイラム・パーシー・マキシム

ハイラム・パーシー・マキシム
Hiram Percy Maxim
Hiram Percy Maxim, c.1914
生誕 (1869-09-02) 1869年9月2日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ニューヨーク市ブルックリン区
死没 1936年2月17日(1936-02-17)(66歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 コロラド州ラ・フンタ英語版
墓地 ローズヒル墓地
出身校 マサチューセッツ工科大学
職業 発明家
配偶者 Josephine Hamilton
子供 Hiram Hamilton Maxim
Percy Maxim Lee
ハイラム・スティーブンス・マキシム
親戚 ハドソン・マキシム英語版(叔父)
コールサイン W1AW英語版など
テンプレートを表示

ハイラム・パーシー・マキシム(Hiram Percy Maxim、1869年9月2日 - 1936年2月17日)は、アメリカ合衆国発明家であり、アマチュア無線の先駆者である。クラレンス・デントン・タスカ英語版とともに、全米規模のアマチュア無線組織であるアメリカ無線中継連盟(ARRL)を設立した。また、初めて商業的に成功した銃器用サイレンサーを発明したほか、内燃機関マフラーを開発した。

若年期

[編集]

ニューヨーク市ブルックリン区1869年9月2日に生まれた。父は世界初の全自動式機関銃マキシム機関銃」を発明したハイラム・スティーブンス・マキシムである。叔父(ハイラム・スティーブンスの弟)のハドソン・マキシム英語版は、爆薬や弾道推進剤を発明した。妹のアデレードは、イグナツィ・パデレフスキのピアノ調律師として知られるエルドン・ジュベールと結婚した[1]

1875年に一家でニュージャージー州ファンウッド英語版に移り住んだ[2]

1886年、当時は2年制だったマサチューセッツ工科大学の機械工学科を17歳で卒業した[3]

キャリア

[編集]

大学卒業後は、ボストンの様々な電力会社で働いた[4]

銃器と自動車

[編集]

1892年からマサチューセッツ州リンのアメリカン・プロジェクタイル社に勤務した。マキシムは、内燃機関を作ろうとして、上手く行かなかった。後に、ドイツのマイバッハダイムラーベンツによるエンジン開発について知らなかったと述べ、「小さなエンジン1台を作るのにも非常に時間がかかることに驚いた」と述べている。ようやく内燃機関の燃焼に成功したが、振動がひどく、油、火、煙などを吹き出すという代物だったという[5]

1895年初頭、マキシムはアルバート・ポープ英語版の元を訪れ、それにより、彼が経営するポープ・マニュファクチャリング・カンパニー英語版の自動車部門で働くことになった。同年11月に開催されるシカゴ・タイムズ=ヘラルド・レース英語版に向けて自動車を開発したものの間に合わず、審判として参加した。会場でマキシムは、モリス&サロム社が製作した世界初の電気自動車であるエレクトロバット英語版IIに乗せてもらった。1899年、コネチカット州ブランフォード英語版でアメリカ初のクローズドサーキットでの自動車レースが開催され、マキシムが運転するガソリンエンジンのポープ・コロンビア号が優勝した。

マキシムは、初めて商業的に成功した銃器用サプレッサー(サイレンサー)を1902年頃に発明してその製造・販売を行い、1909年3月30日に特許を取得した[6]。マキシムは、自身が発明した装置を「マキシム・サイレンサー」(Maxim Silencer)という商標で売り出し[7]、雑誌に広告を掲載した[8]

また、サイレンサーの技術を応用して内燃機関用マフラーを開発した。英語圈の国の多くでは、自動車のマフラーは「サイレンサー」と呼ばれている[9]

アマチュア無線

[編集]

マキシムはアマチュア無線を趣味としていた。1914年、アマチュア無線家同士でメッセージを中継する組織があれば良いと考え、地元のアマチュア無線クラブの会長のクラレンス・デントン・タスカ英語版とともアメリカ無線中継連盟(ARRL)を設立した。

マキシムのコールサインは、当初はSNY、1WH、1ZMで、第一次世界大戦後は1AWとなり、後にW1AW英語版となった。このコールサインは、マキシムの死後ARRLに移管され、ARRL本部のクラブ局のコールサインとなっている。ARRLは、21歳以下のアマチュア無線家とARRL会員を対象とした、マキシムの名を冠した賞を授与している[10]


著述

[編集]

1933年、地球外生命体に関する当時の科学を解説した"Life's Place in the Cosmos"(宇宙における生命の位置)を執筆した。1936年、幼少期の父との思い出を書いた"A Genius in the Family: Sir Hiram Stevens Maxim Through a Small Son's Eyes"(家族の中の天才: 幼い息子の目を通して見たハイラム・スティーブンス・マキシム)と、自動車開発の先駆者として働いていた時期について書いた"Horseless Carriage Days"(馬なし馬車の時代)という2冊の自伝を発刊した。

結婚と家族

[編集]

マキシムは1898年12月21日に、メリーランド州ヘイガーズタウンでジョセフィン・ハミルトン(Josephine Hamilton)と結婚した。ジョセフィンは、元メリーランド州知事ウィリアム・トーマス・ハミルトンの娘だった[11]。2人はコネチカット州ハートフォードに住み、息子のハイラム・ハミルトン・マキシム(Hiram Hamilton Maxim)と娘のパーシー・ハミルトン・マキシム(Percy Hamilton Maxim)をもうけた。

娘のパーシーは、シカゴのジョン・J・グレスナー・ハウス英語版に名を残す実業家ジョン・J・グレスナーの孫のジョン・グレスナー・リー(John Glessner Lee)と結婚した。パーシーは女性有権者連盟英語版の会長を1950年から1958年まで務め、ジョン・F・ケネディ大統領から消費者諮問委員に任命され、委員長に就任した。また、大統領選挙での候補者討論会を提唱し、1955年には上院でジョセフ・マッカーシー上院議員に対抗する証言をした。

死去

[編集]

1936年2月、アリゾナ州フラッグスタッフローウェル天文台を訪れるためにハートフォードの自宅から鉄道で移動中、車内で体調を崩し、搬送先のコロラド州ラ・フンタ英語版の病院で2月17日に死去した。

遺体は、メリーランド州ヘイガーズタウンのローズヒル墓地の、妻の実家の区画内に埋葬された[12][13]

大衆文化において

[編集]

マキシムの幼少期についての自伝"A Genius in the Family"は、1946年に"So Goes My Love"のタイトルで映画化された。イギリスでは原作通りのタイトルに変更された。マキシムの役はボビー・ドリスコールが、両親の役はドン・アメチーマーナ・ロイが演じた。

特許

[編集]

著書

[編集]
  • Life's Place in the Cosmos, New York: D. Appleton, 1933.
  • A Genius in the Family, New York: Harper, 1936.
  • Horseless Carriage Days, New York: Harper, 1936.

脚注

[編集]
  1. ^ “Noise's Bogeyman”. Time. (January 4, 1932). オリジナルのSeptember 30, 2007時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20070930103659/http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,742801,00.html 2007年8月21日閲覧. "While mental hygienists, efficiency experts and city officials have been bewailing the maddening effects of city noise, Hiram Percy Maxim has been manufacturing noise mufflers at Hartford, Conn. Last week he announced that his Maxim Silencer Co., of which he is president and his only son Hiram Hamilton is chief engineer and whose factory is in Asylum Street, Hartford, will—besides continuing to make silencers for guns, motor exhausts, safety valves, air releases, in fact every kind of pipe which emits a gas—offer a consulting service in noise abatement." 
  2. ^ Maxim, Hiram Percy. A Genius in the Family, Lateral Science. Accessed August 6, 2019. "We moved to Fanwood, New Jersey, in the spring of 1875. My father used to come out from New York on Saturday afternoons and remain with us until Monday morning."
  3. ^ "Hiram Percy Maxim", MIT Museum
  4. ^ A Diversified Mind: Hiram Percy Maxim” (英語). Connecticut History | a CTHumanities Project (2018年9月2日). 2020年11月13日閲覧。
  5. ^ Maxim, Hiram Percy. Horseless Carriage Days. New York: Dover Publications, Inc., 1962 (1936), p. 12, 47.
  6. ^ USAR, William S. Brophy (1 May 1989). Marlin Firearms: A History of the Guns and the Company That Made Them. Stackpole Books. p. 653. ISBN 978-0-8117-4694-6. https://books.google.com/books?id=mdC3DAAAQBAJ&pg=PA653. "During the early 1900s, Hiram Percy Maxim designed and patented gun silencers. His efforts were directed toward both military and sporting arms and resulted in his forming the Maxim Silencer Company, Hartford, Conn." 
  7. ^ Freeman, Morton S. (18 December 1997). A New Dictionary of Eponyms. Oxford University Press, USA. p. 165. ISBN 978-0-19-509354-4. https://books.google.com/books?id=dujiiVP2KJIC&pg=PA165 
  8. ^ Gage (1913). Electrical Record and Buyer's Reference. New York: Buyers' Reference Company. p. 53. https://books.google.com/books?id=6382AQAAMAAJ&pg=PA53 
  9. ^ Goddard, Stephen B. (11 November 2000). Colonel Albert Pope and His American Dream Machines: The Life and Times of a Bicycle Tycoon Turned Automotive Pioneer. McFarland. p. 227. ISBN 978-1-4766-1334-5. https://books.google.com/books?id=6RVbAQAAQBAJ&pg=PA227 
  10. ^ ARRL Board Confers Awards and Recognitions” (英語). www.arrl.org. 2020年8月6日閲覧。
  11. ^ U.S. Passport Application of Hiram Percy Maxim, 22 October 1923
  12. ^ “Hiram Maxim Dies. Invented Silencer. Device, Originally Used for Firearms, Now Employed More in Other Ways. Was patron of Amateurs. Headed Radio and Film Groups Followed in Footsteps of Father and Uncle.”. New York Times. (February 18, 1936). https://www.nytimes.com/1936/02/18/archives/hiram-maxim-dies-iinted-silencer-device-originally-used-for.html 2008年4月25日閲覧。 
  13. ^ “Hiram Percy Maxim, Wireless Amateur No. 1, Defended Rights of Youth”. New York Times. (February 23, 1936). https://www.nytimes.com/1936/02/23/archives/a-champion-passes-hiram-percy-maxim-wireless-amateur-no-1-defended.html 2007年8月21日閲覧. "Radio amateurs, numbering more than 45,000 in the United States, are mourning the loss of a friend and faithful ally in the passing of Hiram Percy Maxim of Hartford, Connecticut. As an ardent wireless amateur Mr. Maxim is remembered by veteran experimenters of pre-war days by the musical tone of his quench spark gap which spelled out the call letters of his pioneer station." 

参考文献

[編集]
  • Schumacher, Alice Clink, Hiram Percy Maxim, Father of Amateur Radio, Great Falls, MT: Schumachers, 1970.

外部リンク

[編集]