← ← ← |
1925年 - 1945年 | → → → → |
(国旗) | (大管区章) |
公用語 | ドイツ語 | ||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
首都 | カールスルーエ (1933年 - 1940年) シュトラスブルク (1940年 - 1945年) | ||||||||||
| |||||||||||
通貨 | ライヒスマルク(ℛℳ) | ||||||||||
現在 | ドイツ フランス |
バーデン大管区(バーデンだいかんく、ドイツ語: Gau Baden)は、国民社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)の設置した大管区の一つである。
バーデン大管区は、ロベルト・ワーグナーにより1925年に設置された。1927年から大管区紙『指導者』(Der Führer)はフランツ・モララーの下で出版され、1928年からは後に文化大臣となるオットー・ヴァッカーにより出版された。1926年より大管区宣伝指導者のカール・レンツは副大管区指導者となり、1930年の国会選挙に当選した。ヴァインハイムの地区指導者ヴァルター・ケーラーは、1933年のナチ党の権力掌握迄、副大管区指導者となっていた。1934年、ハイデルベルク管区指導者のヘルマン・レーンが大管区幕僚長に就任した。
ワーグナーは1933年3月11日に臨時政府を召集し、バーデン共和国大統領の職を引き継ぎ、5月5日に国家代理官に任命された。ヴァルター・ケーラーは5月6日に首相に就任し、特に経済政策に於て自らの権力を行使した。大管区の領域はバーデン共和国の実際の地域とは全く対応していなかった[1]。
第二次世界大戦勃発後の1940年、ワーグナーは占領下のアルザス地方を含む新しい帝国大管区である「上ライン帝国大管区(Reichsgaus Oberrhein)」の設立を推進したが、これは実現しなかった。しかし、1941年3月22日よりアルザス地方がバーデン大管区と合併し、バーデン=エルザス大管区(Gau Baden-Elsass)として再編された。1940年5月20日、バーデンに於るシンティ・ロマ人とロマがシュトゥットガルト近郊のホーエナスペルグ集会所に連行され、そこからポーランドに強制移送された。アルザスの占領後、ロベルト・ワーグナーは1940年6月20日にアルザス地方の「アーリア化」を主目的に民政長官に就任し、ケーラーは財政長官を引き継いだ。アーリア化政策により、45,000人の現地人がアルザスから追放された。1940年10月22日から23日、大管区内のユダヤ人が集められ、南フランスのグル強制収容所に移送された。当初は秘匿とされていたこの移送計画は、ヨーゼフ・ビュルケル(ザールプファルツ大管区指導者)とロベルト・ワーグナーによって計画され、親衛隊指導者グスタフ・アドルフ・シェールによってカールスルーエで実行された[2]。1941年11月23日、ストラスブール国立大学が開校し、ナチズムに基づく思想教育が実施された。大管区内には、シルメック=フォルブルック治安収容所とナッツヴァイラー強制収容所が存在した。
国政本局はシュヴァルツヴァルトのホルンベルク城に置かれ、1940年からはカルスパッハに独自の大管区学校が設立された[3]。市職員向けの研修はアルザスのシェーネック=トゥルンベルクとイルキルシュ=グラフェンスタデンで行われた。