パウル・ラウト(Paul Raud、1865年10月22日[1] - 1930年11月22日)はエストニアの画家である。双子の兄弟のクリスチャン・ラウトやアンツ・ライクマーとともに、20世紀初頭のエストニアにおける最も影響力の大きい画家になった。
エストニア北部レーネ=ヴィル県の Kirikukülaで生まれた。父親は早く亡くなり、叔父の世話で1881年に家族とタルトゥに移った。タルトゥでエストニア出身の画家、オスカー・ホフマンやユリウス・フォン・クレーファーの作品を見て画家を志した。1年間軍務についた後、ドイツに移り、1888年から1894年までデュッセルドルフ美術アカデミーで、ハインリヒ・ラウエンシュタイン、クローラ(Hugo Crola)、ヨハン・ピーター・テオドール・ヤンセン、シル(Adolf Schill)、エドゥアルト・フォン・ゲープハルトに学んだ[2] 。
エストニアに帰国後は、肖像画や風景画を描き、1896年にはバルト海のムフ島なども訪れた。この頃はドイツにおける印象派の画家、マックス・リーバーマンのスタイルに近い作品を描いた。
第一次世界大戦が始まった後、1915年からタリンの商業学校で絵を教え始め、1923年からはタリンの工芸学校で教えた。
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Seminude (1893)
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赤い帽子の婦人 (1893)
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Rakvere墓地 (1895)
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ムフ島の老人
- ^ Eintrag im Taufregister der Gemeinde St. Jakobi im Wierland (estnisch: Viru-Jaagupi kogudus)
- ^ Bettina Baumgärtel, Sabine Schroyen, Lydia Immerheiser, Sabine Teichgröb: Verzeichnis der ausländischen Künstler und Künstlerinnen. Nationalität, Aufenthalt und Studium in Düsseldorf. In: Bettina Baumgärtel (Hrsg.): Die Düsseldorfer Malerschule und ihre internationale Ausstrahlung 1819–1918. Michael Imhof Verlag, Petersberg 2011, ISBN 978-3-86568-702-9, Band 1, S. 438
- Virve Hinnov: Paul Raud. 1865–1930. Kirjastus Kunst, Tallinn 1966.
- Konrad Maier: Die Emanzipation der estnischen Kunst. In: Norbert Angermann, Michael Garleff, Wilhelm Lenz (Hrsg.): Ostseeprovinzen, Baltische Staaten und das Nationale. LIT, Münster 2005, ISBN 3-8258-9086-4, S. 287 (Google books)