ヒューイ・"ピアノ"・スミス Huey "Piano" Smith | |
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出生名 | Huey Pierce Smith |
生誕 |
1934年1月26日 アメリカ合衆国・ルイジアナ州ニューオーリンズ |
死没 |
2023年2月13日(89歳没) アメリカ合衆国・ルイジアナ州バトンルージュ |
ジャンル | R&B、ブルース、ロックンロール |
職業 | ミュージシャン |
担当楽器 | ピアノ |
活動期間 | 1949年 - 1981年 |
レーベル |
サヴォイ・レコード エイス・レコード インペリアル・レコード インスタント・レコード ピターパット・レコード コティリオン・レコード |
共同作業者 | ザ・クラウンズ(ボビー・マーシャン、ジェリ・ホール、ルーズヴェルト・ライト、カーリー・ムーア、"スカーフェイス"・ジョン・ウィリアムズ、他)、アール・キング、アルヴィン・"レッド"・タイラー、リー・アレン、ロバート・パーカー、ジェイムズ・リヴァーズ、ジェイムズ・ブッカー、チャールズ・"ハングリー"・ウィリアムズ、ギター・スリム、フランキー・フォード、ダニー・ホワイト |
ヒューイ・"ピアノ"・スミス (Huey "Piano" Smith, 1934年1月26日 - 2023年2月13日) は、米国ルイジアナ州ニューオーリンズ出身のR&Bピアニスト、バンドリーダー、ソングライター、歌手。1950年代より自身のグループ、ザ・クラウンズを率いて活躍。底抜けに明るいノヴェルティ・ソングの数々を生み出した。そのサウンドは、ドクター・ジョンらニューオーリンズのミュージシャンたちに影響を与えるに留まらず、ロックンロールのサウンド形成にも大きく寄与したといわれている。
ヒューイ・スミスは、1934年1月26日、ニューオーリンズに生まれた。8歳の頃、近所に住む叔父の見よう見まねでピアノを始めた。最初に覚えた曲のひとつは、リロイ・カーの「How Long, How Long Blues」だった[1]。
15歳の頃からニューオーリンズのクラブ・シーンで活動するようになり、ギター・スリム、アール・キングを始め、スマイリー・ルイス、ロイド・プライスなど数多くのアーティストのバックを務めるようになった[2]。リトル・リチャードがニューオーリンズで行ったスペシャルティ・レコードのレコーディング・セッションでもピアノを弾いている[3]。スミスがレギュラーで出演したクラブにはデュー・ドロップ・イン、クラブ・ティアフアナなどがあった[4][1]。
1953年、サヴォイ・レコードよりシングル「You Made Me Cry」 (b/w 「You're Down With Me」)でレコード・デビューを果たす[5]。1956年にはジョニー・ヴィンセントが興したばかりだったエイス・レコードと契約し、レコーディングを行った。しかし、その際にレコーディングした「We Like Mambo」をヴィンセントはエディ・ボー名義のシングルとしてリリースしてしまった。これは、当時急上昇中だった彼の人気にあやかろうとした措置だったが、両者のキャリアに傷を残す形となってしまった[1]。
エイスにおけるスミス名義での初のレコードは、1956年ヒューイ・"ピアノ"・スミス・アンド・ザ・リズム・エイセズ名義でリリースしたシングル「Little Liza Jane」 (b/w 「Everybody's Whalin'」)だった。このシングルのリリースにより知名度を上げたスミスはシャーリー&リーに抜擢され、彼らとツアーに出るようになった[1]。
1957年、ヒューイ・"ピアノ"・スミス&ザ・クラウンズを結成。同グループ名義では初の作品となる「Rocking Pneumonia and the Boogie Woogie Flu」をリリース、これがR&Bチャート5位を記録するヒットとなった。これによりスミスはクラウンズの活動に専念する決断をし、シャーリー&リーのバンドから脱退した。彼の後任としてアラン・トゥーサンがバンドに参加した[1]。
クラウンズは、続いてエイスから「Don't You Just Know It」、「High Blood Pressure」、「Pop-Eye」などの楽曲を世に送り出している。1959年には、スミスは新曲として「Sea Cruise」を用意したものの、ジョニー・ヴィンセントはこれをクラウンズではなく、白人アイドル歌手、フランキー・フォードに歌わせることを決め、スミスの用意したバック・トラックに彼の歌を被せる形でリリースした[2]。結果、同曲はビルボードのBillboard Hot 100の14位を記録する大ヒットとなっている[6]。
クラウンズはボビー・マーシャン、ジェリ・ホール、カーリー・ムーア、ルーズヴェルト・ライトなど、複数のシンガーをフロントに据える形でのパフォーマンスを行い、そのシンガーは時とともに変わっていった。
1960年代に入ってエイスとの契約が終了すると、スミスはインペリアル・レコードと契約するが、エイス時代の成功を再現するには至らなかった。この頃スミスはエホバの証人となった。その後もジョー・バナシャクのインスタント・レコードなどからシングルをリリース、1970年代までは散発的な活動を続けるが、作品は1978年にレコーディングした『Rockin' & Jivin'』(1981年リリース)を最後に作っていない。
スミスは1980年にバトンルージュへ移住[7]。1981年にニューオーリンズ・ジャズ&ヘリテッジ・フェスティバルに出演したのを最後に、ライヴ活動に関しても完全な引退状態となっている。
2000年、スミスはリズム・アンド・ブルース・ファウンデーションのロックンロール・パイオニア賞を受賞。ニューヨークで開催された授賞式に出席し、演奏。久々に公の場に姿を現している[7]。
2014年、ルイジアナの日刊紙などで音楽ライターを務めるジョン・ワート執筆のスミスの伝記本「Huey "Piano" Smith and the Rocking Pneumonia Blues」が出版された[7]。
スミスは、2023年2月13日夜、バトンルージュの自宅にて就寝中に死去した。89歳だった[8]。
日本では、2005年に放映されたサントリーの飲料「DAKARA」のCFに、スミスの「Don't You Just Know It」が使用され話題となった[9]。2021年にはサントリーのビール系飲料、「金麦〈ザ・ラガー〉」のCFにも同曲が使用されている[10]。
年 | 曲名 | レーベル名 | レコードNo. | 最高位 | |
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米国ポップス[11] | 米国R&B[12] | ||||
1953年 | You Made Me Cry You're Down With Me |
Savoy | 515 | — — |
— — |
1956年 | We Like Mambo I'm So Tired |
Ace | 515 | — — |
— — |
1956年 | Little Liza Jane Everybody's Whalin' |
Ace | 521 | — — |
— — |
1957年 | Rocking Pneumonia And The Boogie Woogie Flu, Part 1 Rocking Pneumonia And The Boogie Woogie Flu, Part 2 |
Ace | 530 | 52 — |
5 — |
1957年 | Free, Single And Disengaged Just A Lonely Clown |
Ace | 538 | — — |
— — |
1958年 | Don't You Just Know It |
Ace | 545 | 9 — |
4 — |
1958年 | Havin A Good Time We Like Birdland |
Ace | 548 | — — |
— — |
1958年 | Don't You Know Yockomo Well, I’ll Be John Brown |
Ace | 553 | — — |
— — |
1959年 | Would You Believe It (I Have A Cold) Genevieve |
Ace | 562 | — — |
— — |
1959年 | Tu-Ber-Cu-Lucas And The Sinus Blues Dearest Darling (You're The One) |
Ace | 571 | — — |
— — |
1960年 | I Didn't Do It They Kept On |
Vin | 1024 | — — |
— — |
1960年 | Beatnik Blues For Cryin' Out Loud |
Ace | 584 | — — |
— — |
1961年 | She Got Low Down Mean, Mean Man |
Ace | 638 | — — |
— — |
1961年 | Pop-Eye Someone To Love |
Ace | 649 | — — |
— — |
1961年 | The Little Moron Scald Dog |
Imperial | 5721 | — — |
— — |
1962年 | Behind The Wheel Part 1 Behind The Wheel Part 2 |
Imperial | 5747 | — — |
— — |
1962年 | More Girls Sassy Sara |
Imperial | 5772 | — — |
— — |
1962年 | Don’t Kncok It Snag-a-Tooth Jeanie |
Imperial | 5789 | — — |
— — |
1963年 | Somebody Told It Every Once In A While |
Ace | 672 | — — |
— — |
1963年 | He's Back Again Quiet As It's Kept |
Constellation | C-102 | — — |
— — |
1967年 | Bury Me Dead I'll Never Forget |
Instant | 3287 | — — |
— — |
1969年 | Twowaypockaway Part I Twowaypockaway Part II |
Instant | 3297 | — — |
— — |
1969年 | Eight Bars Of Amen Epitaph Of Uncle Tom |
Instant | 3301 | — — |
— — |
1969年 | You Got Too Part 1 You Got Too Part 2 |
Instant | 3303 | — — |
— — |
1969年 | Ballad Of A Black Man The Whatcha Call 'Em |
Instant | 3305 | — — |
— — |