ビー・バップ・デラックス Be-Bop Deluxe | |
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ビー・バップ・デラックス(1977年) | |
基本情報 | |
出身地 | イングランド |
ジャンル |
アートロック プログレッシブ・ロック グラムロック ニュー・ウェイヴ |
活動期間 | 1972年 - 1978年 |
レーベル | EMI |
公式サイト |
www |
メンバー |
ビル・ネルソン チャールズ・トゥマハイ サイモン・フォックス アンドリュー・クラーク |
旧メンバー |
ロブ・ブライアン イアン・パーキン ニコラス・チャタートン・デュー |
ビー・バップ・デラックス (Be-Bop Deluxe)は、イギリスのロックバンドである(「ビ・バップ・デラックス」と表記される場合もある[1])[2]。リーダーであるビル・ネルソンを中心に1972年にヨークシャーで結成され、1974年にメジャー・デビューした後、1978年まで活動した。
音楽スタイルはギター・サウンドを基調にしたポップなロックが中心であるが、後期にはシンセポップへのアプローチも見せた。芸術家肌であるビルのワンマンバンド的色彩が強く、彼の嗜好を反映したSF感覚や、夢想的な暗喩を含むメランコリックな曲から、ストレートに見えてどこか奇妙な味わいを持つブギーなどが特徴的である。
サックス奏者である父を持つなど音楽的環境に恵まれたビルは、ハンク・マーヴィンやチェット・アトキンスなどのギタリストの影響を受けて早くからギターを始める。コスモノーツというアマチュアバンドを始めたビルに、ギタリストとしての才能を感じた父親は、当時高校生であったビルに後に彼のトレード・マークになる ギブソン ES-345を買い与えた[3]。
その後ミッドナイト・キーパーズ、ティーンエイジャーズなどの地元アマチュアバンドを経た後、地元ウェイクフィールド・アートスクールに入ったビルは、ジミ・ヘンドリックス[4]やアート・ロックの影響を受け、スリーピースバンド、グローバル・ヴィレッジを結成し初のレコーディングを行う。
1970年に、第1期ビー・バップ・デラックスの原型ともなるジェントル・レボリューション、フラグシップなどのメンバーを経た後、地元のレコード店などの協力により、自己のスタジオと共にインディーズ・レーベル、スマイルを設立する。
1971年、スマイルよりソロ名義で250枚[5]ほど初回プレスされたLP『ノーザン・ドリーム("Northern Dream")』が、BBCラジオの番組「トップ・ギア・ショー」のDJで、イギリスのロック界に影響力を持つジョン・ピールによって、さかんにオンエアされたことからビルは有名になっていく。同時期EMIハーベストからプロ契約の話が持ち上がった。
EMIが望んでいたのはビルとのソロとしての単独契約だった[6]。しかしビルはソロよりもバンドでの活動を計画しており、ビルと少年時代からの友人イアン・パーキン(G)を中心に、ロブ・ブライアン(B)、ニコラス・チャタートン・デュー(ニック・デューと略される場合も多い)(D)、リチャード・ブラウン(K)ら、ジェントル・レボリューションなどからの旧知のメンバー主体のラインナップでビー・バップ・デラックスを結成していた。
ビー・バップ・デラックスは1972年9月に地元ヨークシャーのキャンバーランドホテルで初ライブを行う。ビルはバンドとしてのメジャー契約を目指し、一旦契約話を保留していたEMIに、"ジェットシルバー・アンド・ザ・ドール・オブ・ビーナス"と"ライダーズ・オブ・マイ・ラブ"のデモテープを送った[7]。
1973年4月、スマイルよりシングル盤「ティーンエイジ・アークエンジェル/ジェット・アット・ドーン」をリリースした。このシングルもジョン・ピールによってオンエアされ、ライブ活動と相まってビー・バップ・デラックスの評判は上昇し、他のレコード会社数社も獲得に動き始める。これを受けてEMIは同年8月、ロンドンのマンチェスター・スクエアでオーディションを行った。また、BBCラジオの「トップ・ギア・ショー」のためのスタジオ・ライブ録音も行った[:en]。1974年2月22日、マーキーでのライブの後、EMIと楽屋で契約を結んだ。
こうしてビー・バップ・デラックスは、1974年6月、ファースト・アルバム『美しき生贄』をリリースする。このアルバムによってビー・バップ・デラックスはポスト・グラム的評価を受けるが、ビルは「デヴィッド・ボウイらと比較される事を快く思わなかった」と後に述べている。その後スティーヴ・ハーレイ&コックニー・レベルの前座としてツアーを行うが、EMIが他のメンバーの力量に不満を示し、ビルも同様に考えていたためバンドを解体する事になる。
ビルはスティーヴ・ハーレイ&コックニー・レベルを脱退したポール・ジェフリーズ(B)、ミルトン・リーム・ジェームズ(K)、ミルトンに紹介された元ハッケンサックのサイモン・フォックス(D)とバンドの再構築を図る。このラインナップで1975年よりレコーディングを始めるが、発売中止となってしまうシングル「ビトゥィーン・ザ・ワールド/ライツ」と、6度のライブの後、コックニー・レベルからの二人はバンドを去る。
残ったサイモン・フォックスに、オーストラリアのバンド、ミシシッピーのベーシストとしてイギリスに来たが、バンドと別れロンドンに残ったニュージーランド出身のチャールズ・トゥマハイ(B)をオーディションによって加え、ビー・バップ・デラックスはトリオ編成で再出発する。
1975年5月、プロデューサーにクイーンを成功に導いたロイ・トーマス・ベイカーを迎え、ファースト・アルバムに対して、よりプログレッシッブなアプローチを行った『フュチュラマ』をリリース。ベイカーが得意とする多重録音を駆使したこのアルバムからのシングル「魅惑の淑女」(原題"Maid In Heaven")がスマッシュ・ヒットとなる。
ライブのサポートメンバーであったアンドリュー・クラーク(K)が正式メンバーとなり[8]、1976年2月、ジョン・レッキーとビルの共同プロデュースによる『炎の世界』をリリース[9]。アルバムが全英17位、シングル「闇夜の航海」(原題"Ships in the Night")が全英23位となり、ライブ・ステージの完成度なども含め高い評価を受ける。この後、レッキーとビルの共同プロデュースは、ビー・バップ・デラックス解散後のレッド・ノイズまで続く。
以上3枚のアルバムは全てギターに関係したタイトルがつけられており[10]、理由として「これらはギター中心の音楽を追求したことの暗喩である」という意味の事をビルは述べている[11]。
アメリカでの実質デビュー作となった『炎の世界』のリリースに合わせて、1976年3月より、スティクス、エレクトリック・ライト・オーケストラなどのサポートとして全米ツアーを行ったあと、1976年10月、LP片面半分が組曲というコンセプチュアルな『モダン・ミュージック』をリリース。その後、ニュージーランド国籍であるトゥマハイの就労ビザの問題等が起こるも、ビー・バップ・デラックスは人気、パフォーマンスともに最盛期を迎える。
1977年7月、LP1枚EP1枚の2枚組という変則的なライブ・アルバム『ライヴの美学』をリリース。全英10位とライブ・アルバムとしては異例のセールスをあげる[12]。ビル自身がアルバムの内スリーブに、「'77年春のツアー」との文を書いているため、ライブ音源は「モダン・ミュージック・ツアー」からとされる場合が多いが、『モダン・ミュージック』からの選曲はない。
1978年2月にリリースされた『プラスティック幻想』で、これまでのギターを中心としたバンド・サウンドから、大きくシンセポップ的なサウンドに変化する。このアルバムは、その後隆盛するテクノ、ニュー・ウェイヴに対するビルの先見性が認められるもので、新たな評価を得たものの、従来のビー・バップ・デラックスの音楽性を求めるファンを失う結果にもなった。アルバムリリース後、数度のライブを行うものの、ビルはビー・バップ・デラックスとして出来る音楽は終わったとしてバンドを解散する。
ビルはアンドリュー・クラークや実弟のイアン・ネルソンらと、テクノポップバンド「ビル・ネルソンズ・レッド・ノイズ」を結成。1979年、『触れないで!僕はエレクトリック』(原題"Sound-On-Sound")をリリース。その後ビルは内省的なソロ・プロジェクトに移行する。現在も活動中。チャールズ・トゥマハイは、元ウイングスのジミー・マカロックらとザ・デュークスでアルバムを1枚出した後、1985年、ニュージーランドに帰る。1995年、心臓麻痺で死去。サイモン・フォックスは、トレヴァー・ラビン、スティーヴ・ヒレッジなどのツアーサポートを行う。現在は音楽業界から引退。
Paul Sutton Reeves, Music in Dreamland: Bill Nelson and Be Bop Deluxe, Helter Skelter Publishing, 2008, ISBN 1-9051-3929-2 [2]
billnelson.com 内 Discographyページ[3]