フランキー堺

フランキー堺
フランキー堺
1960年
本名 堺 正俊さかい まさとし
生年月日 (1929-02-13) 1929年2月13日
没年月日 (1996-06-10) 1996年6月10日(67歳没)
出生地 日本の旗 日本鹿児島県鹿児島市車町[1]
死没地 日本の旗 日本東京都港区東京都済生会中央病院[2]
職業
活動期間 1955年 - 1996年
主な作品
テレビドラマ

映画

その他
霊感ヤマカン第六感』(2代目司会)
受賞
ブルーリボン賞
その他の賞
キネマ旬報ベスト・テン
主演男優賞
1957年幕末太陽傳
藤本賞
1994年写楽
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フランキー堺フランキーさかい[3][4]1929年昭和4年〉2月13日[3][5] - 1996年平成8年〉6月10日[5])は、日本コメディアン俳優ジャズドラマー司会者。

鹿児島県鹿児島市出身[3]。本名は堺 正俊さかい まさとし慶應義塾大学法学部卒業。

来歴・人物

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鹿児島市車町(現在の上本町の一部)出身[1]。父親は鹿児島の士族家系の出身。明治大正時代に活躍し、映画『ノンキナトウサン』の主役としても知られる曾我廼家五九郎とは親戚に当たる。

小学校在学中はボーイソプラノの歌い手として注目され、合唱団としてNHK鹿児島放送局のラジオ番組に出演した。

一家で東京市大森区池上へ引越し、池上第二小学校[6]、私立麻布中学校を経て、慶應義塾大学法学部卒業。中学時代の同級生には小沢昭一加藤武が、他の同級生にはなだいなだ内藤法美仲谷昇大西信行らがいた[7]

1946年8月のバレエ白鳥の湖」日本初演(第一次東京バレエ団)では男性ダンサーが足りず立ち役は早稲田、慶應、上智の各大学の演劇部の学生が演じ、慶應大の学生だった堺も出演している。

大学時代から進駐軍のキャンプでバンド「シックスレモンズ」のジャズ・ドラマーとして演奏し、芸能界へ進む。芸名のフランキーは、進駐軍相手に演奏を行うため通りがいいように名付けた。1954年にフランキー堺とシティ・スリッカーズを結成して、スパイク・ジョーンズをまねた冗談音楽を演奏[8]築地のクラブで演奏していると、俳優伴淳三郎と知り合い、念願の役者へ。

後に映画へ進出し、『幕末太陽傳』や『駅前シリーズ』などに出演[3]。幕末太陽傳での左平次の演技が決定打となって、1957年ブルーリボン賞主演男優賞を受賞する[8][3]。ブルーリボン賞受賞の弁では「今撮影している映画(『母三人』1958年公開)は、笑わせ役者から泣かせ役者に踏み出す第一歩です」と抱負を語った[8]

堺は、花形ジャズマンでもあったリズム感覚と明晰な頭脳を生かしたスラップスティック演技は超一流といわれ、小沢は堺を「やらせたら、あんなにおかしいことができる人は他にいないでしょうね。その技芸は一番ですよ」とコメントし[9]、初対面の小林信彦にも「ピエール・エテックスの喜劇『女はコワイです』のギャグを数えたら六十ありましたが、僕が使えるのは五十四ですかね」と切り出す[10]など今も輝かしい才気が語り伝えられているが、堺もこのコメントあたりからスラップスティック・コメディアンから人情喜劇役者への転身が始まる。特に東宝から松竹へ移った辺りからは、芸名のようなフランキーな持ち味は控えられるようになった。

BC級戦犯の悲劇を描いた『私は貝になりたい』、人情派検事の奮闘を描いた『赤かぶ検事奮戦記』などの社会派ドラマ、『モスラ』や『世界大戦争』などの特撮まで幅広く活躍した[3][4]。『モスラ』の監督を務めた本多猪四郎は堺の演技について、熱心に役に取り組んでおり非常にやりやすかったと述べている[11]

朝日放送クイズ番組霊感ヤマカン第六感』では野末陳平の後任として2代目司会者を務め、軽妙かつ温厚な司会ぶりで視聴者に親しまれた。

多額の私財を投じて東洲斎写楽の研究を行っていたことでも有名である。1995年篠田正浩監督映画『写楽』では、企画総指揮・脚色を務め、版元蔦屋重三郎役を自ら演じた。これは、『幕末太陽傳』で堺を主演に起用した川島雄三監督が「次回作はフランキー堺主演で写楽を撮る」と告げたまま急死してしまったため、その遺志を継いで30年後に完成させたものだった。また、同じく写楽の映画を撮ることを念願としていた巨匠・内田吐夢とも意気投合したが、内田も夢を果たせずに没した[7]

落語家8代目桂文楽に入門しており、噺家として桂文昇の名を持っていた。

1967年から大阪芸術大学で演劇論を講じ、1974年より大阪芸術大学舞台芸術学科の教授に就任し学科長も務めた[7]1994年紫綬褒章を受章。

1996年6月7日未明に大阪市のホテルで吐血して緊急入院、6月10日午後11時2分、肝不全のため東京都港区済生会中央病院で死去した。67歳没[2]

『モスラ』で共演した小泉博は堺の死について、「ショックでした」と語っている[12]

親族

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堺の長男は和久峻三の娘と、次男は福澤諭吉の曽孫の娘とそれぞれ結婚している[13]

受賞

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出演作品

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映画

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『地下から来た男』(1956年)
幕末太陽傳』(1957年)
私は貝になりたい』(1959年)

テレビドラマ

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テレビアニメ

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劇場アニメ

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バラエティ

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ラジオ

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  • フランキーのさわやかジョッキー(文化放送
  • フランキー堺のフランキー夜話(ニッポン放送)- パーソナリティ

CM

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広告

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NHK紅白歌合戦出場歴

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年度/放送回 曲目 対戦相手
1958年(昭和33年)/第9回 男はよわい 江利チエミ
1959年(昭和34年)/第10回 もぐら祭り
1960年(昭和35年)/第11回 悲しきインディアン ペギー葉山
1961年(昭和36年)/第12回 金色夜叉 越路吹雪

著書

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  • 内村直也編『現代テレビ講座 第2巻 テレビタレント篇』ダヴィッド社、1960年(「テレビ演技の実際」を収録)
  • 『フランキー太陽伝』報知新聞社、1969年(巻末に自伝「ぼくの『ドラムとドラマ』」を収録)
  • 『(フランキー堺の)男性諸君―独断と偏見に満ちあふれたお喋り集』ルック社、1975年
  • 『写楽道行』(SF時代小説)ISBN 4163088806 ISBN 4167507013
  • 『芸夢感覚―フランキー人生劇場』(自伝的エッセイ集)ISBN 4087740412
  • 『写楽を探せ―謎の天才絵師の正体』(アンソロジー)ISBN 4881351680
  • 『俳句のゆたかさ―森澄雄対談集』(対談「遊びの精神」を収録)ISBN 4023305685
  • 『(著名人が語る〈学びのヒント〉 第5巻)創るよろこび』(「劇的生活」を収録)ISBN 4897847524

脚注

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注釈

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  1. ^ クライマックスでは一人14役を演じた。
  2. ^ フランキー自らが長年温めていた企画・総指揮。
  3. ^ 映画遺作
  4. ^ 実際の堺一家が出演した。
  5. ^ 上記と役名は同じだが、同一人物であるかは不明。
  6. ^ テレビドラマ遺作。

出典

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  1. ^ a b 鹿児島市(1970) p.1089
  2. ^ a b 史上初の大調査 著名人100人が最後に頼った病院 あなたの病院選びは間違っていませんか”. 現代ビジネス (2011年8月17日). 2019年12月20日閲覧。
  3. ^ a b c d e f g 東宝特撮映画全史 1983, p. 533, 「怪獣・SF映画俳優名鑑」
  4. ^ a b c ゴジラ大百科 1993, p. 128, 構成・文 岩田雅幸「決定保存版 怪獣映画の名優名鑑」
  5. ^ a b c d 野村宏平、冬門稔弐「2月13日」『ゴジラ365日』洋泉社映画秘宝COLLECTION〉、2016年11月23日、48頁。ISBN 978-4-8003-1074-3 
  6. ^ 池上第二小学校ホームページ
  7. ^ a b c 日外アソシエーツ現代人物情報[要文献特定詳細情報]
  8. ^ a b c d e f g 小林信彦『日本の喜劇人』(文庫版)新潮社、1982年(原著1977年)、97-102頁。ISBN 4-10-115804-5 
  9. ^ 小林信彦『おかしな男 渥美清』88頁、新潮文庫版2003年8月
  10. ^ 同書175頁
  11. ^ 「本多猪四郎監督 長編インタビュー(1)」『モスラ/モスラ対ゴジラ』東宝出版事業室〈東宝SF特撮映画シリーズVOL.2〉、1985年1月1日、149頁。ISBN 4-924609-04-8 
  12. ^ 『モスラ』のDVDオーディオコメンタリーの小泉の弁より。
  13. ^ 系図でみる近現代 第49回 福澤諭吉 福澤克雄 フランキー堺
  14. ^ 母三人(1958) Movie Walker
  15. ^ ぶっつけ本番 eiga.com
  16. ^ 東宝特撮映画全史 1983, p. 536, 「主要特撮作品配役リスト」
  17. ^ ドラマスペシャル 山頭火 何でこんなに淋しい風ふく - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス

参考文献

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関連項目

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外部リンク

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