ブランドン・タルティコフ Brandon Tartikoff | |
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本名 | Brandon Rick Tartikoff |
生年月日 | 1949年1月13日 |
没年月日 | 1997年8月27日(48歳没) |
出生地 | ニューヨーク州フリーポート |
死没地 | カリフォルニア州ロサンゼルス |
国籍 | アメリカ合衆国 |
職業 | ネットワーク局社長、プロダクション会社会長他 |
活動期間 | 1974-1997 |
配偶者 | リリー・タルティコフ |
主な作品 | |
「コスビー・ショー」 「ヒルストリート・ブルース」 「チアーズ」 「特捜刑事マイアミバイス」 |
ブランドン・タルティコフ(Brandon Tartikoff 1949年1月13日 - 1997年8月27日)は、NBCエンタテインメント部門の元社長、パラマウント・ピクチャーズの元会長。
1949年1月13日、ニューヨーク州ロングアイランド郊外のフリーポートでユダヤ系家族に生まれた。
子供の頃からコメディ番組やトーク番組が大好きで、母親は早くから周囲の友達と違っていることに気付いていた[1]。両親が言うには10歳のときに『わんぱくデニス』(1959年の実写版)を見ながら「配役が良くない」などと評論していたという[2]。
エール大学に進学するとフェンシング部の部長を務めると共に、後に著名な漫画家となるギャリー・トゥルードーらと学内の日刊紙を発行した。大学でロバート・ペン・ウォーレン(1905–1989)の講義を受けたとき「きみは放送業界の職に就くべきだ」とウォーレンに薦められ[3]、WTNH-TV(コネチカット州で最初のテレビ局)に就職した。その翌年ABCネットワークの傘下にあるシカゴのWLS-TVに転職した。
WTNH-TVに勤めていた25歳の頃、リンパ腺の癌と言われるホジキンリンパ腫を発症したが、治療を受けながらも休まずに仕事を続けた。休暇があればロサンゼルスに行って大手ネットワーク局の職探しをした。やがてWLS-TVでの仕事ぶりがABCのフレッド・シルバーマンCEOに認められ、1976年にABCに採用された[4]。
1979年、業績が思わしくなかったNBCはフレッド・シルバーマンをABCから引き抜いた。その際シルバーマンはタルティコフを誘い、NBCコメディ部門の責任者に任命した。
入社して間もなくグラント・ティンカーとメアリー・タイラー・ムーア夫妻が経営するMTMエンタープライズから『ヒルストリート・ブルース』のパイロットフィルムの制作を委託され、1980年からシリーズ化を決定。7シーズン続くヒット作になるが、始まった頃の評価はあまり良くなかった。
シルバーマンに代わってから新しい番組はほとんどが失敗に終わり、わずか2年で辞任した。グラント・ティンカーが次のCEOに選任され、それに伴いタルティコフは3大ネットワーク局史上最年少の32歳の若さでNBCエンタテインメント部門(NBC's Entertainment Division)の社長に昇進した[5]。初期に担当した番組は『特攻野郎Aチーム』『チアーズ』などがある。
しかしその翌年、10年前に発症したホジンキリンパ腫が再発する。前回より深刻で約1年間の科学療法を受けるが、かつらと人工の眉毛を付けて病気を隠しながら仕事を続けた[6]。
タルティコフには「テレビ視聴者はしっかりと作られた革新的な番組を常に求めている」という信念があった[7]。ティンカーCEOはタルティコフにドラマ部門を任せ、その成果は徐々に表れていった[8]。彼が意欲的に取り組んだ『コスビー・ショー』は、当時視聴率トップのCBSの『私立探偵マグナム』の時間帯にぶつけ勝利し、NBCの復活に貢献した1980年代最大のヒット作の一つとなった[9]。
また、あるNBC幹部が「最近のテレビ俳優は顔ばかりで演技力に欠ける」と不満を漏らしたのをヒントに、タルティコフは風変わりな私立探偵を思い付いた。「ありがとう、わかりました、フリーズ!(動くな)などの6つの単語しか言わない主人公。その代わり喋るのは彼の愛車」・・・幹部の発言を皮肉った半ば冗談のアイデアだったが、ここから『ナイトライダー』が生まれた[10]。ソープドラマ(いわゆる昼ドラ)の常連俳優だった無名のデヴィッド・ハッセルホフを見い出したのもタルティコフだった。
『特捜刑事マイアミバイス』では、当時最先端と言われたMTVのような映像を刑事ドラマで表現しようと史上最高の製作費を注ぎ込み、それまでのテレビドラマの常識を覆した。
こうしてタルティコフが在籍した1991年までにNBCは3大ネットワークのトップに返り咲いた。1981年の収益が4,800万ドルだったのに対し、1984年は2億1,800万ドルに増加、さらに68週連続で視聴率1位を記録した1989年は6億5000万ドルという快挙であった[11]。
とはいえ "Manimal"、"Beverly Hills Buntz"、"Bay City Blues"のようにパイロットフィルムのみ、または第1シーズンで脱落していった失敗作もいくつかある。
『ファミリータイズ』ではマイケル・J・フォックスの容姿と低い身長が気に入らず、「彼は弁当箱を飾るような男にはなれないよ」(アメリカでは人気ドラマや漫画のキャラクターがプリントされた子供用の弁当箱の需要がある)などと冷たく言い放った。彼はマシュー・ブロデリックを推薦していたのだが、プロデューサーの熱意に負け仕方なく承諾した[12]。ところが『ファミリータイズ』は全米2位の人気番組になり、主人公アレックス役のマイケル・J・フォックスはこの番組で一躍大スターになった。後にフォックスは自分の顔写真をプリントした特注の弁当箱をタルティコフに贈った。タルティコフは間違いを公式に認め、反省の意を込めて弁当箱をオフィスに飾っておいたという[13]。
また『となりのサインフェルド』のパイロットフィルムを見た彼は「ニューヨークをうろつく神経症のユダヤ人など誰が見たがるんだ?」と批評した。彼自身もニューヨーク生まれのユダヤ人なのだが、そのような偏ったキャラクターがニューヨーク以外の地域に浸透するとは思えなかったのだった[14]。結果は「全米の4人に1人が見た」と言われるほどヒット作となった。
1991年にNBCを去り、42歳でパラマウント・ピクチャーズの会長に就任した。『ウェインズ・ワールド』『1492コロンブス』『パトリオット・ゲーム』『スタートレックV 新たなる未知へ』などの制作に関わった。
しかしその翌年の1月、別荘のあるレイクタホ近くで自身が運転する車で交通事故を起こし、タルティコフは複数の骨折で入院し、同乗していた8歳の娘カーラが脳に障害が残るほどの重傷を負った。その後彼女の長期リハビリに付き添うため施設のあるニューオーリンズに家族で移り住むことになり、わずか15ヶ月でパラマウント・ピクチャーズを辞任した。ただし辞任の理由はそれだけでなく、パラマウントでの業績が思わしくなかったため幹部たちと衝突していたからとも言われている[15]。
パラマウントを辞任してすぐH・ビール(H. Beale Company)という番組制作会社を起ち上げた。社名は映画『ネットワーク』(1976)の主人公ハワード・ビール(ピーター・フィンチが演じる狂信的なテレビキャスター)から拝借している[16]。
1994年に国際的報道機関であるニューワールド・コミュニケーションズの社長として復帰し翌年会長になったが、同社が買収されると知って引退。1997年にはAOLの会長になり世界初の双方向番組のシステムを構築した。
1997年8月、ホジキンリンパ腫を再発しロサンゼルスの病院で数か月間の闘病生活を続けたが48歳で亡くなった。
『スタートレック:ディープスペースナイン』シーズン6第1話と『となりのサインフェルド』シーズン9第1話で追悼メッセージが流された[17]。
タルティコフが亡くなってから7年後、NATPE財団(全米テレビ番組役員協会)によって「ブランドン・タルティコフ レガシーアワード」が発足した。テレビ業界での輝かしい活躍を讃える賞で、毎年マイアミで授賞式が開催されている。
第1回の受賞者はブランドン・タルティコフだった。
2012年、タルティコフが残した4,000通あまりの文書が妻リリーから南カリフォルニア大学(USC)映画学科に寄贈された。同校の卒業生であるジョージ・ルーカスらが提案したもので[18]、NBCに入社した1979年からパラマウント・ピクチャーズを引退した1992年までに取り交わした書類や手紙、スピーチ、インタビューの記録などが含まれる。これらはUSCシネマライブラリーに永久保存されている[19]。