ヘシェリ氏 (満文:ᡥᡝᡧᡝᡵᡳ ᡥᠠᠯᠠ, 転写:hešeri hala, 漢文:赫舍里氏, 拼音:hèshělǐ shì) は満洲族の姓氏の一で、満洲族八大姓の一に数えられる。中でもドゥインゲ地方ヘシェリ氏は、康熙朝の輔政大人や皇后、権臣を輩出したことで知られる。
『欽定滿洲源流考』に拠れば、清代の赫舎哩へシェリ氏は、『金史』所載の「紇石烈he-shih-lieh氏[1]」と同一氏族とされ、[2][3]金代には梁王ワンヤン・ウジュの娘・永安県主を娶った源郡王・紇石烈・志寧[4]を首はじめとし、ほかにも多数の「紇石烈氏」がみられる。[5]また、『金史』巻135「金國語解」に拠れば、「紇石烈氏」は漢姓として「高」を名告ったとされる。[6]
『朝鮮王朝實錄』には「托温地名豆漫トゥメン高姓卜兒閼名」なる人物がみえるが、[7]卜兒閼が「高」姓を冠している[7]ことなどから、満洲史家の三田村勘助は、高・卜兒閼を『金史』所載の「紇石烈氏」の後裔であるとしている。[1]托温は、斡朶里odoli[1]、火兒阿hol-a[1]の二つの豆漫トゥメンとともに移闌・豆漫イラン・トゥメン (→三イラン萬戸トゥメン) を構成した氏族で、[7]元は三姓イラン・ハラ地方 (現黒竜江省ハルビン市依蘭県) に居住していた。
三姓地方を東西に流れる松花江スンガリー・ウラの北岸に注ぐ支流・湯旺河は、明代に「屯tún河」または「托溫tūowēn河」と呼ばれ、さらに遡って元代には「桃溫táowēn水」、また金代には「陶温tāowēn水」や「土溫tǔwén水」、「濤溫tāowēn水」などとも呼ばれた (英字は拼音)。[8][9]三田村に拠れば、屯河 (湯旺河) と松花江の合流地点に位置した「固木納城[10]」は、かつて金代「紇石烈氏」の拠点であり、後には高氏の住地「托温」であった。
元末明初の混乱期に斡朶里と火兒阿、この二つの萬戸トゥメンは南下し、それぞれを母体とする建州衛と建州左衛 (ヌルハチの出身) とが明朝によって設置されたが、托温はその後も三姓地方に残留した。[1]『八旗滿洲氏族通譜』には、赫舎哩へシェリ氏の祖先であるムフル都督が、ドゥインゲ地方に興って、後に白河、続いてハダ・グルンに遷居したとあり、ホイファやイェヘにもヘシェリ氏は散居している。[11]三田村は、三姓イラン・ハラ地方の故地に留まった高氏 (紇石烈氏) と、ハダ・ホイファ・イェヘ、すなわちフルン・グルン (海西女直) に従属した赫舎哩へシェリ氏との間にはつながりがあると説く。[1]
なお、『八旗滿洲氏族通譜』は赫舎哩へシェリ氏の名称について河川名に由来するとしている。[11]また、古くは唐末女真通用30姓の一にも数えられた。[12]
近世においてはその始祖をムフル都督に求める。ムフルはドゥインゲから白河、ハダへと遷居し、八人の子を設けた。長子・瑚新布禄、次子ダンチュ、三子・達柱、四子・岱音布禄、五子アイムブル、六子・拖霊阿、七子テヘネ、八子・噶爾柱費揚古である。
『八旗滿洲氏族通譜』は以下の6+派をあげる。
『欽定八旗通志』[13]はさらに詳細に以下の58派を挙げる。
民国以後、ヘシェリ氏の多くは赫、何を漢姓とし、ほかにも高、康、赫、張、蘆、賀、索、英、郝、黒、佟、普、李、満などもみられる。[注 1]