ベネット・サーフ | |
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『ホワッツ・マイ・ライン』に出演中のサーフ(1952年) | |
現地語名 | Bennett Cerf |
誕生 |
Bennett Alfred Cerf 1898年5月25日 アメリカ合衆国 ニューヨーク市マンハッタン |
死没 |
1971年8月27日 (73歳没) アメリカ合衆国 ニューヨーク州ウェストチェスター郡マウント・キスコ |
職業 |
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言語 | 英語 |
最終学歴 | コロンビア大学 |
配偶者 |
シルヴィア・シドニー (結婚 1935年、離婚 1936年) フィリス・フレイザー(結婚 1940年) |
子供 |
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ウィキポータル 文学 |
ベネット・アルフレッド・サーフ(Bennett Alfred Cerf、1898年5月25日 - 1971年8月27日)は、アメリカ合衆国の出版者で、ランダムハウスの共同設立者である。自作のジョーク・駄洒落集や、テレビのゲーム番組『ホワッツ・マイ・ライン』のレギュラー回答者を務めたことでも知られる[1]。
ベネット・サーフは1898年5月25日、ニューヨークのマンハッタンで、アルザス系・ドイツ系のユダヤ人の家庭に生まれた[1][2][3]。父のギュスターヴ・サーフは石版画家で、母のフレデリカ・ワイズはタバコ販売の財閥の相続人であった。母はベネットが15歳のときに亡くなり、その後すぐに弟のハーバートがサーフ家に引っ越してきて、10代のベネットに文学的、社会的に強い影響を与えた[4]。
1916年にタウンゼント・ハリス高校を卒業した。この高校は、出版者のリチャード・L・サイモンや劇作家のハワード・ディーツの母校である。10代の頃は、マンハッタンのワシントンハイツにあるアパート「リバーサイドドライブ790番地」に住んでいたが、同じアパートには、後に著名になった2人の友人、ハワード・ディーツとハースト新聞の経済編集者、メリール・ルーカイザーも住んでいた。サーフは、1919年にコロンビア大学のコロンビア・カレッジでBachelor of Artsを、1920年に同大学のジャーナリズム・スクールでBachelor of Lettersを取得した。卒業後は、『ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン』紙の記者や、ウォール街の証券会社に勤務した。その後、出版社ボニ・アンド・リヴライトの副社長に就任した。
1925年、サーフはボニ・アンド・リヴライト社からモダン・ライブラリーの権利を20万ドルで購入する機会を得た。サーフは友人のドナルド・S・クロッパーと50対50のパートナーシップを組んで買収し、独立して事業を始めた[5]。サーフらはこのシリーズの人気を高め、1927年には自分たちが「ランダムに」選んだ一般書籍の出版を開始した。これがサーフらの出版事業の始まりであり、やがてこの事業は「ランダムハウス」と名づけられた。ランダムハウスのロゴには、サーフの友人でありコロンビア大学の卒業生でもあるロックウェル・ケントが描いた小さな家が使われていた[6]。
サーフは、人間関係を構築・維持する才能に恵まれ、ウィリアム・フォークナー、ジョン・オハラ、ユージン・オニール、ジェームズ・ミッチェナー、トルーマン・カポーティ、セオドア・スース・ガイゼルなどの作家と契約を結んだ。また、アイン・ランドの著書『肩をすくめるアトラス』を出版したが、この本で表明されているランドの哲学「オブジェクティビズム」にサーフは激しく反対していた。サーフはランドの「誠実さ」と「輝き」を賞賛し、2人は生涯の友となった[7][8]。
1933年、サーフは合衆国対ユリシーズ裁判で、政府の検閲に対する画期的な判決により勝訴し、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』をアメリカで初めて無修正で出版した。この裁判は、マーガレット・アンダーソンとジェーン・ヒープによるシカゴの文芸誌『ザ・リトル・レビュー』にこの小説の一章が掲載されたことで、「猥褻な作品」と判断されてしまったことを発端とする。1933年、アメリカでの出版権を持っていたランダムハウス社は、訴追を恐れずに作品を出版するために、暗黙の禁止令に挑戦する試訴を手配した。そして、フランス版の本を輸入し、作品を積んだ船が到着したときに、アメリカ税関に押収してもらうように手配した。税関に本が到着するという通知があったにもかかわらず、現地の職員は「誰でも持ち込むものだ」と言って没収を拒否した。サーフらは、最終的に作品を押収するように説得した。その後、連邦検事は、法的手続きを先に進めるかどうかを決めるまでに7か月を要した。この作品の猥褻性を評価するために任命された連邦検事補は、この作品は「文学的な傑作」であるが、法的な意味での猥褻物であると考えた。そこで、地方検事が訴えを起こすことができる1930年関税法に基づいて、この作品を訴えたのである。サーフはその後、このフランス語の本をコロンビア大学に寄贈した[9]。
1944年、サーフはジョーク集の第1弾"Try and Stop Me"を、カール・ローズの挿絵入りで出版した。1949年には2冊目の"Shake Well before Using"を出版した。1967年からは、新聞の日曜版"This Week"に週刊コラム『サーフ・ボード』(The Cerf Board)を連載した。1959年、マコ・マガジン社から、サーフのジョーク、ギャグなどをまとめた"The Cream of the Master's Crop"が出版された。
1946年から1967年までと1970年から1971年まで、ピーボディ賞の審査委員となり、1954年から1967年までは審査委員長を務めた[10]。
1951年まで、サーフはNBCのゲーム番組『フー・セイド・ザット』に回答者として時々出演していた。この番組は、最近のニュース報道から引用された言葉を、誰が言ったものかを当てるというものである[12]。1951年から『ホワッツ・マイ・ライン』に毎週出演し、1967年にCBSでの通常放送が終了するまで、16年間出演し続けた。その後、CBSフィルム(現在のバイアコム)制作の同番組の番組販売版にも亡くなるまで出演していた。『セサミストリート』内での同番組のパロディでは、ベネット・スナーフ(Bennett Snerf)という名前になっている。
この番組に出演していた頃、サーフはピュージェットサウンド大学から名誉学位を、1965年11月にはミズーリ州リバティにあるウィリアム・ジュエル・カレッジから名誉文学博士号を授与された。
サーフは、1967年と1968年にコロンビア大学のオーラル・ヒストリー・リサーチ・オフィスのインタビューを受けている。サーフは、これまでの人生で受けた賞の中で、ユーモア雑誌の『イェール・レコード』と『ハーバード・ランプーン』から受けた賞を「心から誇りに思っている」と語っている[13]。
1970年7月の『アトランティック』誌に掲載されたジェシカ・ミットフォードの暴露記事では、サーフが設立したフェイマス・ライターズ・スクールのビジネス慣行が非難されている[14]。
サーフは1970年にランダムハウスの会長を引退し、クロッパーが後を継いだ[5]。
サーフは1935年10月1日に女優のシルヴィア・シドニーと結婚したが、6か月後の1936年4月9日に離婚した。
1940年9月17日、ジンジャー・ロジャースのいとこであるハリウッド女優のフィリス・フレイザーと結婚した。2人の間には、クリストファーとジョナサンという2人の息子がいた。2人はマンハッタンに住居を構えていたが、1950年代初頭、ニューヨーク州ウェストチェスター郡マウント・キスコに不動産を購入し、亡くなるまでそこに住んでいた。マウント・キスコには、サーフに因んだサーフ通り(Cerf Lane)という通りがある。
サーフは1971年8月27日にマウント・キスコにて死去した。73歳だった[1]。
ランダムハウス社は1977年にサーフの自叙伝"At Random: The Reminiscences of Bennett Cerf"(アットランダム:ベネット・サーフの回想、日本語訳『ランダム・ハウス物語―出版人ベネット・サーフ自伝』)を出版した。
メリーランド州ウェストミンスターの郊外にあるキャロル郡のベネット・サーフ・ドライブは、サーフに因んで名付けられた。ここには、アメリカ国内に2つあるランダムハウスの流通施設の1つであるランダムハウス・ウェストミンスター流通センター&オフィスがあり、ベネット・サーフ・パークもある。
S・J・ペレルマンの1945年のフィーユトン"No Dearth of Mirth, Fill Out the Coupon"(歓喜の絶えないクーポンの記入方法)には、バーナビー・チャープ(Barnaby Chirp)というジョーク本の出版者とペレルマンとの架空の出会いが描かれている。ペレルマンが1962年に発表した舞台『ビューティー・パート』では、ランダムハウスのベネット・サーフをモデルとした出版社チャーナルハウス(Charnel House)のエメット・スタッグ(Emmett Stagg)が登場し、ブロードウェイではウィリアム・レマッセナが演じた。
ABCで放送されたシットコム『パティ・デューク・ショー』の1964年のエピソード"Auld Lang Syne"では、サーフをモデルとしたベネット・ブレイク(Bennett Blake)が登場する。
トルーマン・カポーティを題材とした2006年の映画『インファマス』では、ピーター・ボグダノヴィッチがサーフを演じた。