ペドロ・モラレス | |
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プロフィール | |
リングネーム | ペドロ・モラレス |
ニックネーム | ラテンの魔豹 |
身長 | 178cm |
体重 | 107kg - 110kg |
誕生日 | 1942年10月22日 |
死亡日 | 2019年2月12日(76歳没) |
出身地 |
プエルトリコ クレブラ島 |
デビュー | 1958年[1] |
引退 | 1987年 |
ペドロ・モラレス(Pedro Morales、1942年10月22日 - 2019年2月12日)は、アメリカ合衆国のプロレスラー。プエルトリコ・クレブラ島の出身だが、少年期に家族と共にニューヨークのブルックリンに移住。主にWWWFおよびWWFで活躍していた。ニックネームは「ラテンの魔豹」。
ドロップキックの名手として知られ、日本では彼がジャイアント馬場に、この技を教え32文ロケット砲が誕生したというエピソードでも有名[2]。
1958年11月、WWWFの前身団体であるキャピトル・レスリング・コーポレーションにてデビュー[1]。WWWF発足期の1963年には、バディ・ロジャースが保持していた世界ヘビー級王座にも挑戦した[3]。ドロップキックを得意としていたように、若い頃は華麗な空中殺法の使い手として鳴らした。
その後、彼のスター性に目をつけたフレッド・ブラッシーの仲介で、ブラッシーのホームリングだったロサンゼルスのWWAに移籍。同団体のスター選手となり、1965年3月12日にザ・デストロイヤーからWWA世界ヘビー級王座を奪取[4]。WWA世界タッグ王座も1966年6月から1967年12月にかけて、ブラッシー&バディ・オースチン、カール・ゴッチ&マイク・デビアスなどのチームを破り、パートナーを代えつつ通算6回に渡って獲得した[5]。その後も西海岸および太平洋エリアでの活動を続け、1969年11月4日にはハワイのホノルルでジン・キニスキーからNWA北米ヘビー級王座を奪取している[6]。
1971年、ブルーノ・サンマルチノに替わる新しいニューヨークの主役として、ビンス・マクマホン・シニアに呼び戻されWWWFに復帰。同年2月8日、マディソン・スクエア・ガーデンでイワン・コロフを下し、第4代WWWF世界ヘビー級王者となる[7][8]。以後、プエルトリカンのヒーローとして、イタリア系のサンマルチノと同様、ニューヨークに住む同郷の移民からの熱狂的な支持を集めた。1972年9月30日には、サンマルチノを挑戦者にシェイ・スタジアムで防衛戦を行った(深夜23時以降の興行を禁止する州条例により、75分時間切れ引き分け)[9]。その後も防衛戦を続け長期政権を築いたが、1973年12月1日、スタン・スタージャックに敗れて王座から陥落した[8]。
1974年にWWWFを離れ、NWAのサンフランシスコ地区やフロリダ地区、AWAなどで活躍。サンフランシスコではピーター・メイビアやパット・パターソンと共闘して、ムーンドッグ・メイン、アンジェロ・モスカ、ザ・ブルートらと抗争[10]。AWAでは1977年上期にニック・ボックウィンクルのAWA世界ヘビー級王座に再三挑戦[11]、盟友のメイビアと組んでブラックジャック・ランザ&ボビー・ダンカンのAWA世界タッグ王座にも挑戦している[12]。
フロリダでは因縁のコロフやパターソン、ディック・スレーター、ラーズ・アンダーソンなどを抗争相手に南部ヘビー級王座やTV王座を争った[13][14]。1977年9月1日にはマイアミに遠征してきた新WWWF王者スーパースター・ビリー・グラハムに挑戦し、10月にはセントピーターズバーグとウェストパームビーチにてハーリー・レイスのNWA世界ヘビー級王座に連続挑戦[15]。黒人レスラーのロッキー・ジョンソンとのコンビでも人気を博し、1977年9月にコロフ&パターソン、1978年1月にコロフ&ミスター・サイトーを破りフロリダ・タッグ王座を2度獲得している[16]。
1980年よりWWFに戻り、8月9日の『ショーダウン・アット・シェイ』ではWWF王者ボブ・バックランドと組んでワイルド・サモアンズからWWFタッグ王座を奪取[7][17]。同年12月8日にはケン・パテラを下してIC王座にも戴冠[18]。WWE王座、IC王座、タッグ王座をすべて制覇した最初の選手となった。IC王座は1981年6月20日にドン・ムラコに敗れて一時陥落するも、11月23日に奪還に成功、以降1983年1月22日に再びムラコに奪われるまで、長期間に渡って保持した[18]。
IC王座陥落後はプエルトリコに凱旋し、カルロス・コロンの主宰するWWCにて活動。1983年4月30日にはコロンとのコンビでメディックス(ホセ・エストラーダ&ジョニー・ロッズ)を破り、WWC世界タッグ王座を獲得[19]。シングルでは同年6月25日にバディ・ランデル、1984年3月23日にスウィート・ダディ・シキから北米ヘビー級王座を奪取している[20]。
1985年、ビンス・マクマホン・ジュニアの新体制下となったWWFに復帰。ニューヨーク、カリフォルニア、フロリダなど、かつての主戦場を中心に全米サーキットへ参加した。1986年4月7日の『レッスルマニア2』ではシカゴ大会で行われたバトルロイヤルに出場し、7万人を超える大観衆を動員した同年8月28日の『ザ・ビッグ・イベント』では "キング" ハーリー・レイスと対戦している[21]。1987年の引退後は、WWFのスペイン語放送のカラー・コメンテーターも務めた[7]。1995年には長年の功績をたたえ、WWF殿堂に迎えられた[7]。
晩年はパーキンソン病を患い、2019年2月12日に死去[22]。76歳没。
1966年3月、WWA世界ヘビー級王者として日本プロレスの『第8回ワールドリーグ戦』に初来日。日本陣営との公式戦ではジャイアント馬場には敗れるも、キム・イルとは引き分け、吉村道明、芳の里、上田馬之助、ミツ・ヒライ、ミスター・モトからは勝利を収め、外国陣営ではウイルバー・スナイダーに次ぐ2位の戦績を残した[23]。
8年ぶりの来日となる1974年5月には、当時WWWFと提携していた全日本プロレスの『MSGシリーズ』に、ゴリラ・モンスーンやスパイロス・アリオンらと共に参戦。WWWFの代表選手として、シリーズ最終戦の6月13日、東京都体育館において馬場とPWFヘビー級王座・MSG杯を争った[24]。
1976年4月、WWWFの新しい提携先となった新日本プロレスに初参戦し、新日本版の『第3回ワールドリーグ戦』に出場。全勝で優勝戦に進出して、坂口征二に敗れるも準優勝の戦績を収めた[25]。リーグ戦ではキラー・カール・クラップを相手に流血戦も演じた。リーグ戦終了後の5月13日にはWWA時代からの盟友ビクター・リベラと組んで、坂口&ストロング小林が保持していた北米タッグ王座にも挑戦している[25]。
以降も新日本プロレスに度々登場して、1978年7月24日に広島県立体育館、1979年12月4日に大阪府立体育館において、アントニオ猪木のNWFヘビー級王座に2回挑戦した[26][27]。1979年の来日時には、前述の『ショーダウン・アット・シェイ』に先駆けてバックランドとの新旧WWF王者コンビやダスティ・ローデスとのドリーム・チーム、さらにはタイガー・ジェット・シンとの異色タッグも実現した[28]。1985年5月の『IWGP&WWFチャンピオン・シリーズ』への特別参加が現役最後の来日となった[29]。