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2013年のエスナオラ | ||||||
名前 | ||||||
本名 |
ホセ・ラモン・エスナオラ・ラブル José Ramón Esnaola Laburu | |||||
愛称 | Gorriti | |||||
ラテン文字 | José Ramón Esnaola | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1946年6月30日(78歳) | |||||
出身地 | アンドアイン | |||||
身長 | 176cm | |||||
体重 | 75kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | GK | |||||
ユース | ||||||
SDアンドアイン | ||||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 | (得点) | |||
1965-1973 | レアル・ソシエダ | 181 | (0) | |||
1973-1985 | ベティス | 378 | (0) | |||
通算 | 559 | (0) | ||||
監督歴 | ||||||
1990-1992 | ベティスB | |||||
1991 | ベティス | |||||
1993 | ベティス | |||||
1994-2000 | ベティスB | |||||
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ホセ・ラモン・エスナオラ・ラブル(José Ramón Esnaola Laburu、1946年6月30日 - )は、スペイン・バスク州アンドアイン出身の元サッカー選手、元サッカー指導者。現役時代のポジションはGK。
バスク州ギプスコア県のアンドアインに生まれ、地元アマチュアクラブであるSDエウスカルドゥナ・アンドアインダーラ・デ・アンドアインを経て1965年にレアル・ソシエダへと移籍した。移籍後4シーズン目の1968-69シーズンからレギュラーに定着し、1970-71シーズンにはスペイン代表から初招集を受けたが、初キャップとはならなかった。
1973年、当時セグンダ・ディビシオンに所属していたレアル・ベティスに1200万ペセタで売却された[1]。レアル・ソシエダはこの時得た移籍金で3人の若手GKを獲得した。その3人はペドロ・アルトラ、ウルティ、ルイス・アルコナーダであるが、彼ら全員がスペイン代表に選出され、サモラ賞を受賞した。ベティス移籍後も正GKとしてクラブに在籍し続け、1976-77シーズンにはコパ・デル・レイ優勝を経験した。この優勝を決めた決勝戦はアスレティック・ビルバオとの対戦であり、PK戦にまで試合は続いた。8人目のビルバオのキッカーだったGKのホセ・アンヘル・イリバルをシュートをエスナオラがストップしての戴冠だった[2]。キャリア晩年の1982-83シーズンとラストシーズンの1984-85シーズンにはUEFAカップにも出場し、後者のシーズン終了後に38歳で現役を引退した。
エスナオラは、現役引退後から2012-13シーズンまでレアル・ベティスにて指導者として在籍していた。
1990-91シーズンと1992-93シーズンには、途中就任でベティスのトップチームの指揮を執ったが、いずれもシーズン終了後に退任している。1994年からはBチームの監督としてクラブに携わったが、1999-00シーズンにクラブがテルセーラ・ディビシオンへと降格したことで辞任した。辞任後の2010年から2012-13シーズンまではトップチームのGKコーチを務め、同職を辞して以降は指導者業から身を退いた[3]。