ポール・ダイヤモンド | |
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プロフィール | |
リングネーム |
ポール・ダイヤモンド マックス・ムーン カトー(ケイトー) ハイトー |
本名 | トーマス・ボリック |
身長 | 185cm - 187cm |
体重 | 100kg - 110kg |
誕生日 | 1961年5月11日(63歳) |
出身地 |
クロアチア ザグレブ |
スポーツ歴 | サッカー |
トレーナー |
ボリス・マレンコ ジョー・マレンコ ディーン・マレンコ クリス・アダムス |
デビュー | 1985年 |
ポール・ダイヤモンド(Paul Diamond、本名:Thomas "Tom" Boric、1961年5月11日 - )は、クロアチア・ザグレブ出身の元プロレスラー。
カナダに移民後、サッカー選手を経てプロレスラーに転向し、AWAやWWFなどで活躍[1]。素顔のポール・ダイヤモンドのほか、覆面レスラーのマックス・ムーン(Max Moon)、カトー(Kato)などのリングネームでも知られる[1]。若手時代のショーン・マイケルズのタッグパートナーでもあった[2]。
クロアチア併合後のユーゴスラビアで生まれ、1974年に家族でカナダのマニトバ州ウィニペグに移住。学生時代はサッカーに熱中し、1980年にNASLのカルガリー・ブーマーズにゴールキーパーとして入団する。1982年からはアメリカ合衆国のタンパ・ベイ・ラウディーズに移り、NASLが活動を停止する1984年までプレイした[3]。
サッカー廃業後もラウディーズの本拠地だったフロリダ州タンパにとどまり、ボリス・マレンコのジムでトレーニングを受け1985年にポール・ダイヤモンドのリングネームでデビュー。テキサス州サンアントニオ地区のテキサス・オールスター・レスリングでキャリアを積み、当初はジン・キニスキーの息子ニック・キニスキーとアメリカン・ブリード(American Breed)[4]、後にショーン・マイケルズとアメリカン・フォース(American Force)[2]なるベビーフェイスのタッグチームを組む。マイケルズとのタッグでは、当時アメリカ遠征中だった冬木弘道と川田利明のジャパニーズ・フォース(後のフットルース)とも抗争を展開した[5]。
アメリカン・フォース解散後の1986年10月、全日本プロレスに初来日。外国人エースのタイガー・ジェット・シンやスタン・ハンセンと組んでのタッグマッチで、ジャンボ鶴田、天龍源一郎、タイガーマスク、長州力らと対戦した[6]。帰米後はメンフィスのCWAに参戦して、パット・タナカをパートナーに新しいタッグチーム、バッド・カンパニー(Badd Company)を結成[7]。当初は従前と同じくベビーフェイスとして佐藤昭雄&ターザン後藤やシープハーダーズ、後にヒールに転向してジェフ・ジャレット&ビリー・トラヴィスなどのチームを破り、同地区認定のタッグタイトルを再三獲得した[8][9]。
1988年よりAWAに進出。サンアントニオ時代の相棒だったマイケルズ&マーティ・ジャネッティのミッドナイト・ロッカーズと抗争を展開し、同年3月19日にはロッカーズからAWA世界タッグ王座を奪取した[10]。1年後の1989年3月にケン・パテラ&ブラッド・レイガンズにタイトルを奪われるとタナカとのコンビを解消。フェイスターンしてグレッグ・ガニアやザ・トルーパーと共闘し、ラリー・ズビスコが保持していたAWA世界ヘビー級王座にも挑戦した[11]。
1990年末、同年初頭にニューヨーク入りしていたタナカに続いてWWFと契約。WWFでのタナカの前任パートナーだったサトーのフロント入りに伴い、顔を覆面で隠し空手の道衣を身につけたニセ日本人レスラーのカトー(現地ではケイトーとも発音)に変身、オリエント・エクスプレス(The Orient Express)の新メンバーとなる[12]。マイケルズ&ジャネッティのロッカーズとの抗争をギミックを変えた形で再開し、リージョン・オブ・ドゥームやハート・ファウンデーションなどの強豪チームとも対戦した[13]。1991年には当時WWFと提携していたSWSに素顔のポール・ダイヤモンド名義でタナカと共に来日、チーム名は違えども、事実上のバッド・カンパニーとしての日本マット登場を果たした[14]。
1992年、タナカのWWF離脱後にシングルプレイヤーとなり、9月のWAR来日を経て、サイボーグをイメージしたベビーフェイスのSF風マスクマン、マックス・ムーンに再変身する(初代のマックス・ムーンはコナンだったが、短期間でWWFを退団したため後任として2代目を担当することになった)[15]。空中技主体のファイトスタイルと、両腕に装着されたデバイスから火花や白煙を噴射するパフォーマンスで子供達の支持を集め、マイケルズのインターコンチネンタル王座にも挑戦[15][16]。リポマンとの覆面レスラー同士の抗争も組まれたが、マイクパフォーマンスのスキルに難があったため、大きなプッシュを受けることはなかった[3]。
1993年上期にWWFを離れ、同年6月にポール・ダイヤモンドとして新日本プロレスに初参戦[17]。1994年1月と7月にはWWF時代と同じスタイルのマックス・ムーンとして再来日し、ワイルド・ペガサス、ブラック・タイガー、ラブ・マシーンらと覆面タッグを結成。獣神サンダー・ライガー、エル・サムライ、パワー・ウォリアーとのシングルマッチも行われた[18]。
アメリカでは1993年10月よりECWでタナカとバッド・カンパニーを再結成し、パブリック・エナミーやバッド・ブリード(アクセル・ロッテン&イアン・ロッテン)、ケビン・サリバン&タズマニアックらと抗争[19]。1994年にはWWFでのカトーと同じ覆面を被り、ハイトー(Haito)なるリングネームで短期間ながらWCWにも登場した[20]。その後は素顔に戻り、メンフィスCWAの後継団体であるジェリー・ローラー主宰のUSWAにてスティーブン・ダンと新チームを結成。1997年5月、トゥルース・コミッション(インテロゲーター&リーコン)を破りUSWA世界タッグ王座を獲得した[21]。
1998年より、旧友マイケルズがサンアントニオで主宰していたTWA(Texas Wrestling Academy)にレスラー兼トレーナーとして参加[3]。TWAヘビー級王座を獲得する一方、師範代となってブライアン・ケンドリックやブライアン・ダニエルソンらをコーチした。TWA活動停止後の2001年にセミリタイアし、ホームタウンのウィニペグにてプロレスリング・スクール "Paul Diamond Hard Knocks Pro Wrestling Academy" を開校、後進の指導・育成にあたった[3]。
各地のインディー団体にも時折出場しており、2004年にはアラバマ州ハンツビルのRCW(Rocket City Wrestling)にマックス・ムーンのギミックでスポット参戦。2008年4月18日にはフロリダのASWF(All Star Wrestling Florida)にてタナカとのオリエント・エクスプレスを復活させた[22]。