マグ・ボダール Mag Bodard | |
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生年月日 | 1916年1月3日 |
没年月日 | 2019年2月26日(103歳没) |
出生地 | トリノ |
マグ・ボダール(Mag Bodard、旧姓旧名 Marguerite Perato、1916年1月3日 トリノ - 2019年2月26日)は、フランスの映画およびテレビプロデューサー。
1916年1月3日、イタリア・ピエモンテ州トリノ県トリノに生まれる。
雑誌『ELLE』の特派員としてインドシナへ行き、ジャーナリストで作家のリュシアン・ボダール (Lucien Bodard) と結婚した。フランスへの帰国にあたって、その後日刊紙『フランス・ソワール』(France Soir) の記者でありディレクターであったピエール・ラザレフ (Pierre Lazareff)[1] の仲間になった。しかしラザレフがテレビ放送『Cinq colonnes à la une』のチームに契約しなかったように、彼女はすべてのセリフが歌になっているミュージカルを演出したがっている新人に賭けることで、映画と関わった。それがジャック・ドゥミ監督であり、『シェルブールの雨傘』である。同作品は、1964年の第17回カンヌ国際映画祭でパルムドールを獲得した。48歳にして、異業種からの映画プロデューサーデビューであった。
そしてモーリス・ピアラ(『裸の幼年時代』L'Enfance nue)やアニエス・ヴァルダ(『幸福』)、ロベール・ブレッソン(『バルタザールどこへ行く』Au hasard Balthazar)、ミシェル・ドヴィル、ニナ・コンパネーズといったたくさんの才能を見出したり、維持したりした。クロード・ミレール(『いちばんうまい歩き方』La Meilleure Façon de marcher)とも関わった[2][出典無効]。ヌーヴェルヴァーグあるいはそれに先行する作家やフォロワーたちを起用した作品群は、いずれも日本でもみごとに公開されており、彼女の興行的側面での才能がいかんなく発揮された。
1977年には映画製作をやめるが、テレビに捧げられた活動はますます続行した。90歳近くになっても、つねにフランスのオーディオヴィジュアル界においてアクティヴである。彼女の製作会社は1963年の創立以来「パルク・フィルム Parc Films」といったが、1972年に解体されて「シネ・マグ・ボダール Ciné Mag Bodard」、略して「シネマグ Cinémag」となった[2][出典無効]。
2005年、映画監督で作家のアンヌ・ヴィアゼムスキーが、『Mag Bodard, un destin』(マグ・ボダール、ある運命)と題した52分のテレビドキュメンタリー作品を彼女に捧げた[2][出典無効]。