リヒャルト・ホイベルガー リヒャルト・フランツ・ヨーゼフ・ホイベルガー (Richard Franz Joseph Heuberger , *1850年 6月18日 グラーツ ; †1914年 10月28日 ウィーン )はオーストリア帝国 の作曲家 ・指揮者 ・音楽評論家 ・音楽ジャーナリスト ・音楽教師。同名の息子 は歴史家である。
絆創膏 工場 の経営主を父に[ 1] グラーツ に生まれる。当初は工学 を学ぶが、1876年 に断念して音楽 に転向した。グラーツ音楽院でロベルト・フックス に師事し、1902年 に優秀な成績で修了すると、ウィーン に移ってウィーン・アカデミー声楽協会や、ウィーン・ジングアカデミー 、ウィーン男声合唱協会の合唱指揮者 を歴任した[ 1] 。1902年 よりウィーン音楽院 で教鞭を執り、門下よりクレメンス・クラウス らを輩出した。
ホイベルガーは、新聞の音楽批評 担当者としても名を馳せ、まずは『新ウィーン日報“Neuen Wiener Tagblatt”』で、次いで1899年 より『ミュンヘン 民報』に寄稿した。1896年 には、エドゥアルト・ハンスリック の後任として、『ウィーン新自由新聞』の音楽評論家 となった。一方でフリーランスの記者 や編集者 として、『新音楽新聞』でも活動した。
1914年にウィーンで他界し、ヒンターブリュールに埋葬された。
オペラ やバレエ音楽 、合唱曲 や歌曲 、器楽曲 と幅広い分野で創作したものの、今日では1898年 に作曲したオペレッタ 《オペラ舞踏会“Der Opernball ”》のみで名を遺している[ 1] 。
1955年 に遺功を讃えて、ウィーンのヒーツィング地区に、ホイベルガー通り(Heubergergasse)という名が付けられた。
元日の夜の冒険“Die Abenteuer einer Neujahrsnacht ” (1886年、台本:フランツ・シャウマン)
マヌエル・ベネガス“Manuel Venegas ” (1889年、台本:ヨーゼフ・ヴィクトル・ヴィートマン)
改訂稿 = ミリアム、または五月祭“Mirjam, oder Das Maifest ”(1894年)
裸足の人“Barfüßele ” (1904年、原作:ヴィクトル・レオン、翻訳・台本:ベルトルト・アウエルバハ)
最後の夜“Die letzte Nacht ” (第1幕のみ、1905年~06年作曲)
オペラ舞踏会“Der Opernball ” (1898年)
彼女の長所“Ihre Excellenz ” (1899年)
改訂稿 = 魅惑的な婦人 “Eine entzückende Frau ”
6時の列車“Der Sechs-Uhr-Zug ” (1900年)
ねんね“Das Baby ” (1902年)
三美神“Die drei Grazien ”
デュースターシュタイン侯爵“Der Fürst von Düsterstein ” (1909年)
ドン・キホーテ“Don Quixote ” (1910年)
リュートを弾く女“Die Lautenschlägerin ”
もじゃもじゃ頭のものぐさ太郎“Struwwelpeter ”
弦楽オーケストラのための夜曲 作品7“Nachtmusik für Streichorchester op. 7 ”
花嫁の唄“Brautgesang ”
谷底に一つの菩提樹“Es steht eine Linde im tiefen Tal ”
野原の中を小鳥が飛んだ“Feldeinwärts flog ein Vögelein ”