ルネ・メッジ(René Metge、1941年10月23日 - 2024年1月3日)は、フランス・オー=ド=セーヌ県モンルージュ出身のレーシングドライバー、実業家。「ルネ・メチェ」とも呼ばれる。
ポルシェや英国車を中心にドライブし、ダカール・ラリーの四輪部門を3度制覇した。
7歳で父のブガッティのステアリングを握った[1]。パリの学校で精密スタンピング加工の技術者となり、最初の上司からデルビの50ccバイクのトレーニングを受けたり、ガレージをもらったりした[1]。
1972年にルノー・12 ゴルディーニカップで優勝。フランスツーリングカー選手権に参戦し、トライアンフ・ドロマイトをドライブして1976年に2,000以下クラス、1978年に1,600〜2,500ccクラス王者となった[2][3][4]。1982年にはローバー・3500をドライブして総合でも王者となっている[5]。
ル・マン24時間には6回出場しているが、すべてポルシェ(グループ4やグループ5)をドライブしており[6]、1982年にグループ5クラスで1位完走を果たした[7]。1986年には四輪駆動のポルシェ・961でル・マンにエントリーし、総合7位となった。1987年はサルテ・サーキットのユノディエールで961をドライブし、382km/hをマークした[1]。
ニュルブルクリンク24時間やスパ・フランコルシャン24時間ではBMWもドライブした[1]。
1981年に立ち上がったル・マン24時間のカミオン(トラック)版にも参戦し、1983年にMAN[要曖昧さ回避]をドライブして優勝している[1]。
ラリーレイドにも古くから挑戦しており、ダカール・ラリーの事実上の前身となるアビジャン-ニースラリーで1978年に2位となった。その後誕生したダカール・ラリーの四輪部門に参戦し、1981年(ランドローバー・レンジローバー)に初優勝。これを受けたジャッキー・イクスの紹介でポルシェワークスに加入し、1984年(ポルシェ・953)、1986年(ポルシェ・959)の合計3度の優勝を果たした[8]。1984年には北米のバハ1000でも2位となった[7]。
最後の優勝の年にダカール創始者ティエリー・サビーヌが死去。メッジは彼の後釜としてダカールの運営組織TSO(ティエリー・サビーヌ・オルガニザシオン)に加入し、競技ディレクターとなって、サビーヌの父ジルベール・サビーヌと共に運営に携わった。しかしメッジの運営はうまくいかず、不評のままTSOを去った[8]。
しかしその後もTSOでの経験を活かしてモトネージュ-ハリカーナ、マスターラリー(パリ-北京)、モスクワ-イスタンブール、ルカネー-ペトラ、トルクメン・デザート・チャレンジなどのラリーレイドイベントを転々としながら運営に携わった[7]。
1994年ダカールではペルリーニのトラックをドライブし、総合6位でフィニッシュした[9]。
2003年にル・マンに参戦するダッジ・バイパーGT-Sのテストを行った[6]。
2002年から2007年の間に日産のワークス格であるフランスのチーム・ドスードに加入して、フランス人ロックスターのジョニー・アリディ[7]、ジャーナリストのベルナール・シュバリエ、ツーリングカー世界王者のイヴァン・ミュラーなどのナビを務めた[2][1]。なお2003年は娘のエロディをナビとして、トラック部門勝者に名を連ねるジョルジュ・グロワンが開発したメルセデス・ML430で参戦した[1][10]。
2009年に同じくフランス人のジャン=ルイ・シュレッサーとともに、アフリカ・エコレースを立ち上げた[11]。
モンルージュでランドローバーを扱うディーラーも経営している[2]。
2022年に自伝『ルネ・メッジ 7歳から77歳までのパイロット』を出版した。その発表会にはダカールの戦友や、サビーヌの元妻が出席した[1]。
2024年1月3日に死去。82歳没[12]。
2010年代後半にホンダのワークスチームであるTeam HRCからダカールの二輪部門に参戦したマイケル・メッジ、およびその兄弟でホンダ・サウスアメリカからエントリーしたアドリアン・メッジは、ルネ・メッジと血縁関係があると公言し、ホンダのホームページでもそのような記載がされている[13]が、メッジの娘のエロディはこれを明確に否定している[14]。