ル・モンド・イリュストレ Le Monde illustré | |
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創刊号(1857年) (第17回英国議会選挙へのデモ) | |
ジャンル | 文学・芸術・政治 |
刊行頻度 | 週刊 |
発売国 | フランス |
言語 | フランス語 |
定価 | 30サンチーム |
出版社 | リブレリー・ヌーヴェル |
編集長 | アシル・ブーディリエ |
刊行期間 |
1857年 - 1940年 1945年 - 1956年 |
ル・モンド・イリュストレ(仏:Le Monde illustré)は、フランスのイラスト入り週刊ニュース雑誌。1857年の創刊から1940年にかけてと、1945年から1956年までの二期にわたり刊行された。
『ル・モンド・イリュストレ』は1857年4月18日に国際的かつ保守的な内容で出発した。この雑誌はパリのイタリアン大通り15番地にある「リブレリー・ヌーヴェル」(「新しい書店」の意味)を経営していたアシル・ブーディリエが編集長となり、ブレダ通り(現在のアンリ・モニエ通り)15番地に印刷所を置いていた。
ヘッダのイラストはイタリア出身の画家、エルキュール・ルイ・カテナッチが描き、全ページ挿絵付きのテキストに見開きイラストを加えたフォリオ判16ページで価格は30サンチームであった。これは当時のフランスで大きなシェアを占めていた「イリュストラシオン」の半分の価格であったが、『ル・モンド・イリュストレ』は王室に忠誠を尽くすことによってナポレオン3世から印紙税免除の恩賜を受けていた。
始めの数か月間の執筆者には、シャルル・モンセイユ、アレクサンドル・デュマ・ペール、アメデ・アシャール、シャンフルーリー、ポール・フェヴァル、マリ=ラフォン、オノレ・ド・バルザック、オーギュスト・ヴィト、ジョルジュ・サンド、ルイーズ・コレ、コンスタンス・オーベールなどが含まれていた。
著名な画家の時事的なイラストを売り物にしていた競合他社とは異なり、『ル・モンド・イリュストレ』のイラストにはクレジットを明記していないものがあった。それらのオリジナルは多くがイギリス人によるものであり、たとえばヘッダはウィリアム・フレデリック・メーソン(William Frederick Measom)のイラストをカテナッチが描き直したものだったが、ギュスターヴ・ジャネ、デュドネ・ランスロ、フランソワ・ピエルドン、 エミール・テロンなどの本国のイラストレーターや版画家も擁していた。
1860年には印刷所が考古学者のオーギュスト・ヴァレに売却され、翌年にはシャルル・イリアルテが新しい編集長に就任し、彼は多くの記者や画家を雇った。たとえばエミール・バヤール、ギュスターヴ・ドレ、ベルタール、アメデ・ド・ノエ、オノレ・ドーミエ、 デュラン=ブラジェ、フレデリック・リックス、シャルル・モーラン、エドゥアール・リウーといった面々である。イリアルテは彼らに写真を基とした版画を作るよう指示し、1858年に創刊した「ユニヴェール・イリュストレ」に対抗すべく、定期購読者には25サンチームで販売する方針を打ち出したが、イラストを投げ売りするとして非難を浴びた。その後、ブーディリエは出版社の「ミシェル・レヴィ」に株を売却したが、同社は株を長く保有しなかった。それはまやかしであり、いみじくも1862年に掲載されたシャルル・ボードレールの翻訳によるエドガー・アラン・ポーのエッセイ「メルツェルの将棋指し」に示唆されている。
1866年、発行部数が33,000に達したころ、取締役のエルネスト・パンクークの甥、ポール・ダローズ(1829-1887)が『ル・モンド・イリュストレ』を自身の経営する法律書専門書店の傘下に従えたが、ダローズはほかにも「ル・モニトゥール・ユニヴェルセル」や「ル・プレス・イリュストレ」といった雑誌社を手中に収めた。フランス王政が終焉を迎えるころ、ダローズはナポレオン3世に公然と反旗を翻し、その後数年間、複数の雑誌を掛け持ちする記者や画家が現れるようになった。1874年9月には雑誌のデザインが変更され、表紙にフルページのイラストを用いて「イリュストラシオン」に対抗した。1888年には写真図版が使われるようになり、ダローズの死後は彼の秘書であったエドゥアール・ユベールがその座に就いた。
1892年、文芸誌「ジル・ブラス」のトップで銀行家のビクトゥール・アントワーヌ・デフォッセの弟である、エドゥアール(1848-1923)が取締役に就任した。価格は50サンチームに上がり、デフォッセの友人であったギ・ド・モーパッサンの小説を一面に載せた。1895年12月21日号には一面にサンタクロースを4色で印刷し、翌年も自身が雑誌を率いることを表明した。 1900年には誌面がカラフルなアール・ヌーヴォー調となり、多色印刷でフランスの芸術家のサロンや万国博覧会を特集した。エドゥアールはアンリ・デュフィ=マスェルとジャン=ジョス・フラッパに経営を委ね、新編集長のアルフレッド=ジュスラン(Alfred-Jousselin)の指揮による新体制を整えた。体制移管中、エドゥアールは息子のロベールに事務方を任せた。
第一次世界大戦中、画家のリュシアン・メティヴェは、《ルビュー・コミック》と題された風刺画の連載を担当した。のちにこれはジェアン・テストヴィドに引き継がれた。 1921年1月、『ル・モンド・イリュストレ』は〈普遍的な週刊誌〉〈フランスのレビューと家庭〉を標榜した。1916年に70サンチームであった価格は1931年には2.5フランに上昇し、6ページの広告を含む42ページの内容となった。1914年以降、イラストと写真はごく普通に使用されるようになっていた。 1930年代初頭にはピエール・モルティエが編集長に就任し、フォーブル-モンマルトル通りとフリートラン通りに住んだ。
1938年1月22日、『ル・モンド・イリュストレ』は1930年3月に創刊した「ル・ミロワール・デュ・モンド」(Le Miroir du monde)と合併し、『ル・モンド・イリュストレ / ミロワール・デュ・モンド』となった。モルティエが編集長に就いていた頃、一時的に誌名が『ル・モンド・イリュストレ』に戻ったが、1940年6月8日にて休刊し、1945年2月22日に赤い枠で囲まれたモノクロームのデザインで刊行が再開された。同年5月5日号の一面記事は解放されたベルゲン・ベルゼン強制収容所を採り上げた。1948年12月、『ル・モンド・イリュストレ』は「イリュストラシオン」と合併し、『イリュストラシオン / ル・モンド・イリュストレ』となった。 1956年には「ヌーヴォー・フェミナ」(Nouveau Fémina)と合併し、『フェミナ / イリュストラシオン』となり、1978年に「ル・スペクタクル・デュ・モンド」と合併した「レアリテス」に買収された。
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この地図は宇宙からの視点で映し出されており、赤道から北極まで、そしてカリフォルニアからインドまでの世界を大まかに説明している。動植物、歴史的なできごと、文化的な遺物、先住民がイラストで表現されている。サルガッソ海は大西洋の中央に描かれている。太平洋の蜃気楼、海上で炎上する船舶、ナイアガラの滝、シカゴ、油井、金の採掘、ヒンドゥー教の火葬、中国のジャンク、トゥアレグの戦士、雪崩など、特に興味深い場所と瞬間を示した挿入図や、国家と海上旗のリストも載っている。民族服を着た約79人のスケッチもある。地図の両側には、主要国の国旗、帆船、火山、その他の画像が表示されている。Mer Libre? とラベリングされたグリーンランド北方の氷のない極海に注目して欲しい。これは間違いなく北西航路がまだ存在するかもしれないという希望的観測である。ユニオン・パシフィック鉄道と大西洋横断航路にも注意したい。アフリカと北極でのさまざまな探検家の業績が注視されている[2]。