レオ・レオニ (Leo Lionni) | |
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生誕 |
Leo Lionni 1910年5月5日 ![]() |
死没 |
1999年10月12日(89歳没)![]() |
著名な実績 | 絵本、イラスト |
代表作 |
『スイミー』(1963年) 『平行植物』(1976年) |
受賞 |
児童図書スプリングフェスティバル賞 アメリカ図書館協会最優秀作品 ドイツ児童図書賞 |
レオ・レオニ(オランダ語:Leo Lionni、1910年5月5日 - 1999年10月12日)は、アメリカ合衆国、イタリアのイラストレーター、絵本作家。主に動物の絵本を作っている。レオ・レオーニとも表記される。
1910年5月5日、オランダのアムステルダムにて、ダイヤモンド研磨工の父ルイス・レオニと、母エリザベトの間に生まれる[1]。父ルイスはスペイン系のユダヤ人で、祖父の代からダイヤモンド産業に従事する裕福な家庭であった[2]。ルイスはレオが5歳のときに公認会計士となり、母エリザベト・グロソウはオペラ歌手であった[3]。
絵画コレクターの叔父たちの影響で、シャガール、ル・フォーコニエ、パブロ・ピカソ、デ・キリコ、パウル・クレーなどの芸術に囲まれて育った[2][1]。また9歳の時から、建築家で叔父のピート・グロソウ(母の弟)の指導のもと王立美術館に通い鉛筆デッサンを教わった[2][1]。
1922年に仕事の関係で両親はアメリカのフィラデルフィアに移住、レオはベルギーのブリュッセルに住む父方の祖父母のもとで2年間過ごしたのち、1924年にアメリカに移住した[1]。1925年、父親が鉱油製造会社の工場長となったことから家族でイタリアのジェノヴァに移住した[4]。レオは1年間家庭教師についた後、ヴィットーリオ・エマヌエーレ二世技術高校に入学する[1]。レオにとっては初めての共学で、アーダ・マッフィという女の子と親しくなり、妹のノーラと恋仲になる[5]。1928年、スイスのチューリッヒ大学に入学し経済学を学ぶ[1]。
1931年12月末、レオはノーラ・マッフィと結婚する[1]。同時期イタリア共産党の党員であるフィリッポ・トンマーゾ・マリネッティと出会い、未来派グループへの参加を勧められる[1]。1932年、長男のルイスが生まれる[1]。8月、未来派の展覧会に参加するが以後は距離を置くことになる[1]。
1933年、家族でオランダへ帰国するが、年末にミラノに移住する[1]。1934年、建築関係の専門誌『カザベラ』の編集に協力する[6]。1935年、製菓会社モッタ(it:Motta (azienda))の広報部に就職、ディーノ・ヴィッラーニの助手となり[6]、パネトーネの広告デザインなどを手がける[1]。1935年にジェノヴァ大学経済・商学部を卒業[1]。1937年、モッタを退職しフリーのグラフィックデザイナーとなる[6]。1938年、次男のパオロが生まれる[1]。
1939年、イタリア政府による差別的な人種法の公布をうけて、ユダヤ人であるレオはアメリカ合衆国に亡命する[1]。イタリア国籍だった妻と息子たちにはビザがおりるまで7か月ほどかかり、再会は約1年後となった[7]。レオはフィラデルフィアの広告代理店N.W.エイヤー・アンド・サン (N. W. Ayer & Son) に入社し、1941年にはアートディレクターに昇進、フォードなどの大手クライアントを担当する[1]。1945年、アメリカ国籍を取得する[1]。
1947年、初めての個展を開催、エイヤー社から1年間の休暇をもらい、家族でイタリアのラヴァーニャに移り絵画制作などに取り組み、またラヴェンナでモザイクの技術の習得に熱中する[1]。1948年10月、アメリカに戻りエイヤー社を退職、フリーランスのグラフィックデザイナーとしてニューヨークにスタジオを構える[1]。1948年から1962年にかけて『フォーチュン』誌とタイム社のアートディレクターを務める[1]。1951年から1958年にかけてオリベッティ・アメリカ支店のデザインディレクターを務める[1]。
1953年にはアスペン国際デザイン会議(fr:Conférence internationale de design d'Aspen)の初代会長を勤める[6]。1955年、『プリント (Print (magazine)) 』誌の編集長となる[6]。
1957年には妻と共にインドに3か月間滞在し『フォーチュン』誌5月号にフォトルポタージュを掲載する[1]。1958年にはアジアに8か月滞在し『フォーチュン』誌にフォトルポタージュを掲載、またブリュッセル万国博覧会のアメリカの特設パビリオン「未完成の仕事」の企画制作を担当する[1]。このパビリオンはアメリカの抱えた様々な問題、人種差別や環境問題などを取り上げたものであったが、政治的圧力を受けて数週間で閉鎖されてしまう[8]。1959年、ローチェスター、ポートランド、サンフランシスコ、フィラデルフィアの美術館で絵画とグラフィックデザインの展覧会を開催する[1]。同じ年、孫たちを列車で送っていく途中、騒ぎはじめた孫たちを鎮めるために、レオは即興で手元にあった『ライフ』誌の青と黄色の紙をちぎってお話を始めた[9]。これが最初の絵本『あおくんときいろちゃん』誕生のきっかけとなった[9]。
タイム社との契約は1962年までだったが、それより前に退職してイタリアに戻り、1961年、ジェノヴァ近郊のラヴァーニャにアトリエ付きの家を建てる[10][11]。1961年、絵本『ひとあし ひとあし』がコルデコット賞次点作に選ばれる[11]。1964年、絵本『スイミー』がコルデコット賞次点作、『チコときんいろのつばさ』がアメリカ図書館協会最優秀作品に選ばれる[11]。1967年には『スイミー』がブラチスラバ世界絵本原画展で金のりんご賞を受賞する[11]。同年、インドのアーメダバードの国立デザイン研究所でワークショップを開催することになり、友人でアニメーション作家のジューリオ・ジャニーニ(it:Giulio Gianini)と共に「スイミー」「フレデリック」のアニメーションを制作する[12]。
1968年、『フレデリック』がコルデコット賞次点作に選ばれ、『せかいいちおおきなうち』が児童図書スプリングフェスティバル賞を受賞する[11]。
1969年、ラヴァーニャの家の近くに高速道路が通ることになり引っ越しを決意、トスカーナ州ラッダ・イン・キャンティに農家を購入し、夏はトスカーナ、冬はニューヨークで過ごすようになる[13][11]。1970年、『アレクサンダとぜんまいねずみ』がコルデコット賞次点作に選ばれ、アニメ版「スイミー」が第5回テヘラン国際子ども映画祭で5つの賞を受賞する[11]。
1976年、イタリアの出版社アデルフィ(it:Adelphi)から『平行植物』を出版する[11]。翌年、ヴェローナ、フランクフルトなどで「平行植物」展を開催する[14]。
1981年、国際交流基金により日本に招待され夫婦で1か月ほど滞在する[11]。1984年、パーキンソン病を患う[11]。1986年、ジューリオ・ジャニーニ、アントネッラ・アッバティエッロ(Antonella Abbatiello)と共に「ぼくのだ!わたしのよ!」「さかなはさかな」「コーネリアス」のアニメーションを制作する[11]。
1993年、自伝の執筆を開始する[14]。自伝「Between Worlds」は1997年に出版される。1996年、ラッダ・イン・キャンティの名誉市民となる[14]。
1996年から1997年にかけてイタリアと日本の共同企画による展覧会が開催され、日本では板橋区立美術館、高浜市やきものの里かわら美術館、長島美術館、下関市立美術館を巡回した[15]。
1999年10月12日[注釈 1]、イタリアのトスカーナで老衰のため死去[11]。享年89。
1954年に2週間来日、三越で個展を開催した[6]。1980年に1週間来日[6]。1981年には国際交流基金により24日間来日した[6]。1996年の展覧会開催に合わせて4回目の来日をする予定であったが、薬の副作用により体調が悪化、中止となった[18]。
funboo by iidからレオ・レオニ~フレデリック~のLINEスタンプが24種類リリースされている[25]。