人物情報 | |
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生誕 |
1887年3月20日 清 江蘇省泰興県 |
死没 | 1936年1月5日 (48歳没) |
出身校 | グラスゴー大学 |
学問 | |
研究分野 | 地質学 |
研究機関 | 地質調査所 |
丁 文江(てい ぶんこう、拼音: 、1887年3月20日 - 1936年1月5日)は、中華民国期の地質学者・文筆家。胡適・梁啓超・傅斯年・竺可楨[1]らの友人。主な業績として、鉱物資源開発への貢献、明末の宋応星『天工開物』や徐霞客の再評価など[2]。『梁啓超年譜長編』の編纂や「科学と玄学」論争でも知られる[3]。字は左君[4]。
清末の1887年、江蘇省泰興県に生まれる。5歳の頃から『資治通鑑』を諳んじるなど聡明さを発揮する[5]。
1902年15歳の時から日本に留学し、東京で革命青年たちと交流、梁啓超の著作を読む[6]。1904年頃、スコットランドに亡命中の呉稚暉に招かれ、グラスゴー大学に移動、地質学と動物学を修める[6]。
1911年、留学から帰国。帰途仏領インドシナで下船し雲南に入り、鉱床地帯として知られる雲南の地質・地理を調査する[6]。雲南へはその後も何度か調査に訪れており、1914年の調査の際に、地誌『雲南通志』鉱政篇を読む中で『天工開物』を知る[6]。
帰国後は、政府の地質調査所の初代所長に就任し、翁文灝や章鴻釗とともに鉱物資源開発や後進育成に努める[6]。また、新文化運動只中の胡適と親交する[6]。1919年、パリ講和会議に赴き[7]、同行した梁啓超と友人になる[3]。
1921年、所長を辞職し、熱河省で炭鉱経営者になる[6]。この頃、胡適が創刊した『努力週報』に政治評論を寄稿する[6]。1922年には、中国地質学会の創設や、学術誌『中国古生物志』の創刊に携わる[1]。1923年には「科学と玄学」論争[8](「科学と人生観」論争[9][10])で張君勱と対峙する。
1925年、上海で五・三〇事件が起きた年、団匪賠償金の交渉委員として上海にいた丁文江は、呉佩孚配下の孫伝芳の要請で上海市長にあたる役職を与えられる[11]。エリート統治と対外協調を目指して政務を行うも、孫伝芳の失脚により8ヶ月で退任する[11]。
1929年、10ヶ月に及ぶ西南部調査旅行を行う[11]。1931年、北京大学教授に就任し、同旅行の報告書をまとめたり、代表作の『中国分省地図』を出版したりする[11]。同年、満州事変が起こると、胡適や李四光とともに『独立評論』に政治評論を寄稿、日本との全面戦争を時期尚早としつつも、抗戦に備えることを説く[11]。1932年からは、1929年に没した梁啓超の年譜編纂を趙豊田(顧頡剛の弟子)の協力のもと開始する[3]。1934年、中央研究院の総秘書長に就任[7]。
1935年12月、湖南省へ調査旅行に赴く[7]。同地で鉱山病を患い治療を受けるが、医療事故により悪化。翌1936年1月5日、逝去[7]。岳麓山に墓がある。
没後の1960年、晩年の胡適により伝記(『丁文江的伝記』)が出版された。梁啓超の年譜編纂は、趙豊田・翁文灝・弟の丁文淵らに引き継がれた[3]。
中華人民共和国においては、中国地質学の開拓者として評価されている[1]。