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基本情報 | ||||||||||||
国籍 |
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生年月日 | 1965年9月3日(59歳) | |||||||||||
出身地 |
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ラテン文字 | Kumi Nakada | |||||||||||
身長 | 176cm | |||||||||||
体重 | 62kg | |||||||||||
血液型 | A型 | |||||||||||
選手情報 | ||||||||||||
愛称 | クミ | |||||||||||
ポジション | S | |||||||||||
指高 | 229cm | |||||||||||
利き手 | 両利き[1] | |||||||||||
スパイク | 305cm | |||||||||||
ブロック | 289cm | |||||||||||
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中田 久美(なかだ くみ、1965年9月3日 - )は、日本の元バレーボール選手(全日本女子代表)、指導者、タレント、スポーツキャスター。マネジメント契約先はビッグベン。元女子日本代表監督、プレミアリーグ・久光スプリングス元監督。
日本リーグ、プレミアリーグ(Vリーグ)時代を通じて女子最多4度の最高殊勲選手賞受賞者である。
東京都練馬区出身。名前の由来は、誕生日(9月3日生まれ)から。一人っ子[2]。
母親の助言もあって[3]練馬区立練馬東中学校入学後からバレーボールを始め[4]、2年生の時山田重雄の英才教育バレーチーム『LAエンジェルス』に2期生として入団した。その関係からバレーボールに専念するため高校は通信制の日本放送協会学園高等学校(現在のNHK学園高等学校)に通い卒業した。中学校時代は、同期に生徒会副会長を務めていた尾崎豊がいた。
バレーボール漬けの環境で才能を開花させた中田は、1980年に大谷佐知子と共に史上最年少の15歳(中学3年生)で全日本代表に選出され[5]、同年の日中対抗にセンタープレーヤーとして出場した。直後に山田から素質を買われ、セッターに転向する[6]。翌1981年に日立に進み、セッター転向わずか1年でスタメンを獲得した。同年の日本リーグでは史上初の失セット0での全勝優勝に大きく貢献し、自身も新人賞を獲得した。なお、日本リーグデビューは16歳3か月で、2007年1月に15歳4か月で岡山シーガルズのセッター堀口夏実が出場するまでは最年少記録であった。
1983年からは日本代表でもスタメンセッターとなり、同年のアジア選手権では当時世界一の中国を破り、優勝を飾った。翌1984年のロス五輪でも銅メダルを獲得した。
1986年9月、世界選手権で主将を務めた。11月、練習中に右膝前十字じん帯を断裂した。再起不能ともいわれた大ケガだったが、リハビリを乗り越え10か月後に試合に復帰した。1988年2月、再び右膝を手術した。しかし右膝は完治せず、試合の時は痛み止めの薬を手放せなくなる。同年ソウル五輪に出場した。
1992年、バルセロナ五輪に出場した。日本女子バレー史上初となる3度目の五輪出場を果たし、日本選手団の旗手も務めた。
バルセロナ五輪を最後に同年11月に一度は現役を引退したが、1995年に現役復帰した。1996年にはアシスタントコーチに就任した。1997年に日立を退社して以降、バレーボール教室など後進の指導や全国各地での講演、バレーボール解説者のほか、スポーツキャスター、タレントとして活動している。
2005年、父の定年退職と共に、長野県内に新居を購入し、東京都内から両親とともに移住した[2]。
2005年から翌年まで、日本バレーボール協会の強化委員を務めた。2008年、イタリアプロリーグセリエA・ヴィチェンツァのコーチに就任し、日本人女子として初めて海外バレーボールチームの指導者となった。2009年、セリエA・ノヴァーラのアシスタントコーチに就任した。
2011年9月、久光製薬スプリングスのコーチに就任し[7]、2012年7月1日付で監督に就任した[8][9]。2012年12月24日、都城で行われた天皇杯・皇后杯全日本バレーボール選手権大会の決勝戦では、昨年優勝の東レを下して優勝した。監督就任1年目にしての快挙となった。その後、Vプレミアリーグと黒鷲旗全日本男女選抜大会も制覇し、女子チームで初めてとなる3冠を達成した[10](日韓Vリーグトップマッチと2012年ぎふ国体を含めると5冠となる[11])。
2016年10月25日、日本バレーボール協会理事会にて満場一致で[12]、バレーボール女子日本代表の監督に選出された(女性監督では生沼スミエ[注 1]に次いで2人目)[15]。これにともない久光製薬では総監督となった。2017年5月、久光製薬を退部した[16]。
2021年7月まで女子代表監督に約5年間在任し、自国開催の東京五輪で1次リーグで敗退した。結果を出せなかった失望感と無力感は想像以上に大きく、半年以上も自宅から出られない状態に陥ったという。2022年4月から「東京大学エグゼクティブ・マネジメント・プログラム」(東大EMP)に通学し(2018年にいったん入学して中断していた)、2022年9月に首席で卒業した。
2023年4月1日、V.LEAGUE DIVISION3に2023年秋から参入する、フラーゴラッド鹿児島のエグゼクティブ・ディレクター(ED)に就任した[17](2024年3月1日付けでVリーグ登録抹消[18])また、同じく4月から筑波大学大学院の体育研究科(通学2年制の修士課程の社会人枠試験で合格)に入学した[19]。
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