中里 恒子 (なかざと つねこ) | |
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婦人之友社『婦人の友』第54巻第3号(1960)より | |
誕生 |
中里恒 1909年12月23日 神奈川県藤沢市 |
死没 | 1987年4月5日(77歳没) |
墓地 | 円覚寺 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 川崎市立川崎高等学校 |
活動期間 | 1928年 - 1987年 |
ジャンル | 小説 |
主題 | 女の一生 |
代表作 |
『乗合馬車』(1938年) 『歌枕』(1973年) 『わが庵』(1974年) 『時雨の記』(1977年) 『誰袖草』(1979年) |
主な受賞歴 |
芥川龍之介賞(1938年) 読売文学賞(1973年) 日本芸術院恩賜賞(1974年度) 女流文学賞(1979年) |
配偶者 | あり |
子供 | あり |
中里 恒子(なかざと つねこ、1909年12月23日 - 1987年4月5日)は、日本の小説家。本名・恒。神奈川県生まれ。1939年に国際結婚をテーマにした『乗合馬車』『日光室』で女性初の芥川賞を受賞。人生の機敏を典雅な文体で描いた。戦後は『歌枕』『時雨の記』など老境を描いた作品を多く発表した。日本芸術院会員。
1909年(明治42年)、父・中里万蔵、母・保乃の次女として、神奈川県藤沢市に生まれる。家業は幕末から続く呉服太物商である。1922年(大正11年)、横浜紅蘭女学校(現・横浜雙葉学園)に入学。翌年9月の関東大震災で家も学校も焼失したため川崎に転居し、川崎実科高等女学校(現・川崎市立川崎高等学校)に編入する[1]。
1925年(大正14年)に女学校を卒業、翌年、文藝春秋社員をしていた遠縁の者より永井龍男を紹介される。1928年(昭和3年)、『火の鳥』などの同人雑誌に創作を発表し始める。12月、兄の知人の佐藤信重と結婚して佐藤姓となる[1]。
1930年(昭和5年)、長女が生まれる。1932年(昭和7年)、結核の養生のため逗子町桜山に転居、横光利一、川端康成と知り合う。翌年、逗子の桜山仲町に転居する[1]。1936年(昭和11年)、横光利一門下である寺崎浩編集の「文学読本」の同人となる[1]。
1937年(昭和12年)6月号から翌年3月号まで雑誌『少女の友』に連載された川端康成『乙女の港』の下書きを書く[2]。1939年(昭和14年)2月、前年に発表した「乗合馬車」「日光室」で第8回芥川賞を受賞する[1]。受賞作は、兄たちの国際結婚を描いたもので、のちに娘が米国人と結婚することになり、かつて国際結婚を冷静な目で見ていた中里自身が大きな動揺に襲われるという経験をした。
1952年(昭和27年)、長女がアメリカ・ボストン市のニュートン聖心大学に留学する。1955年(昭和30年)4月、長女が結婚することになり渡米する。1956年(昭和31年)、別居中だった夫と離婚が成立する[1]。
1974年(昭和49年)、老境を描いた『歌枕』で読売文学賞、1975年(昭和50年)『わが庵』で日本芸術院恩賜賞[3]、1979年(昭和54年)『誰袖草』で女流文学賞受賞。『時雨の記』は中年の恋を描いたものとして話題になり、歿後映画化されて再度読まれた。
1979年(昭和54年)より中央公論社より『中里恒子全集』の刊行開始、翌年には乳がんの手術を受ける。1983年(昭和58年)、芸術院会員に推薦される。1985年(昭和60年)、勲三等瑞宝章を受ける。翌年、腸閉塞のため入院する。1987年(昭和62年)1月、再び入院し、4月5日、大腸腫瘍のため死去。77歳没[1]。