伊達宗基 | |
時代 | 江戸時代後期 - 大正時代 |
生誕 | 慶応2年7月15日(1866年8月24日) |
死没 | 大正6年(1917年)1月27日 |
改名 | 建千代麿、亀三郎(幼名)→宗基 |
別名 | 榴岡、鶴城(号) |
墓所 | 仙台市の大年寺 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 陸奥仙台藩主→仙台藩知事 |
氏族 | 伊達氏 |
父母 | 父:伊達慶邦、母:松岡時良の娘・道子 |
兄弟 | 斐姫、婉姫、禎丸、宗基、松五郎、邦宗、某、徳六郎 |
妻 | 正室:松浦詮の三女・都子 |
子 |
恵以子(上野正雄夫人) 養子:邦宗 |
伊達 宗基(だて むねもと)は、江戸時代末期の大名、明治時代から大正時代の華族。位階爵位は従二位伯爵。
伊達宗家の第30代当主で、仙台藩第14代(最後の)藩主、同藩初代知藩事。幼名は建千代麿、亀三郎。号は榴岡、鶴城。
第13代藩主・伊達慶邦の四男。母は仙台藩士・松岡時良の娘・道子(お勝の方)。正室は松浦詮の三女・都子。
慶応4年(1868年)、父・慶邦が奥羽越列藩同盟の盟主になったために罰された。のち家督を譲られて藩主に就いたものの、新政府により62万石の所領を28万石に減封される。実高はもっと低く10万石程度であったために伊達家は伯爵となる。明治2年(1869年)の版籍奉還後、仙台知藩事となり、北海道紗那地方の支配も命ぜられた。
しかし幼少であり、本来なら慶邦の跡を継ぐのは養子・宗敦であったため、明治3年(1870年)に謹慎を解かれた宗敦に知藩事を譲った。廃藩置県後、明治17年(1884年)に伯爵となる。
明治34年(1901年)、明治天皇の仙台巡幸の際、伊達家に伝わる鶴丸を献上。
大正6年(1917年)に52歳で死去。従二位を追贈される。伊達伯爵家は弟の邦宗(慶邦の七男)が継いだ。
日本の爵位 | ||
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先代 創設 |
伯爵 (仙台)伊達家初代 1884年 - 1917年 |
次代 伊達邦宗 |