佐々木 健介 | |
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プロフィール | |
リングネーム |
佐々木 健介 パワー・ウォリアー ケンスキー佐々木 ベンケイ・ササキ マスクド・ボルケーノ |
本名 | 佐々木 健介 |
ニックネーム |
マッスルボルケーノ 爆走重戦車 |
身長 | 180cm (公称) |
体重 | 115kg |
誕生日 | 1966年8月4日(58歳) |
出身地 |
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所属 | ダイヤモンド・リング |
スポーツ歴 | 柔道 |
トレーナー |
長州力 マサ斎藤 |
デビュー | 1986年2月16日 |
引退 | 2014年2月11日 |
佐々木 健介(ささき けんすけ、1966年〈昭和41年〉8月4日 - )は、日本のタレント、元男性プロレスラー、実業家。福岡県福岡市南区出身。血液型B型。
IWGPヘビー級王座、三冠ヘビー級王座、GHCヘビー級王座と合わせて、史上初のメジャー3大シングル・タイトルを戴冠する快挙(メジャー完全制覇)を成し遂げた。
2014年2月13日、現役引退を発表し、28年のプロレス生活に終止符を打った[1]。引退後は健介オフィスに所属し、主にタレント活動を行っている。妻は全日本女子プロレス出身の元プロレスラーで健介オフィス代表取締役の北斗晶(佐々木久子)。
福岡市立花畑中学校時代から柔道を始める[2]。東福岡高等学校卒業後、長州力に憧れ1985年6月にジャパンプロレスに入門、1986年2月16日に笹崎伸司戦でデビュー。長州が新日本プロレスに出戻るとそれに付き従い、1987年6月に移籍。前座戦線で鈴木みのると幾度となく対戦。これが後のライバル関係の発端となった。
1989年8月、海外武者修行としてカナダのカルガリー地区に遠征。ベンケイ・ササキ(Benkei Sasaki)のリングネームでスモー・ハラこと全日本プロレスの北原光騎と日本人コンビを組み、8月18日にボブ・ブラウン&ケリー・ブラウンからインターナショナル・タッグ王座を奪取、9月29日にブラック・ハーツ(アポカリプス&デストラクション)に敗れるまで戴冠した[3]。
1991年秋に、馳浩とのタッグチームで当時新日本プロレスが業務提携を結んでいたWCWへ長期遠征することになっていたが、出発直前の試合で足を骨折(全治6か月と診断)、そのまま長期欠場を余儀なくされ、結局遠征そのものが取りやめとなってしまうというアクシデントに見舞われた。1992年に復帰。11月からはフェイスペイントを施した別キャラクター、パワー・ウォリアー(Power Warrior)に変身。ホーク・ウォリアーとヘルレイザーズを結成してタッグ戦線で活躍する。同年はWCWへの単発遠征も行い、アーン・アンダーソン、ダイヤモンド・ダラス・ペイジ、リック・ルード、スティーブ・オースチンらと対戦。12月の遠征時には獣神サンダー・ライガーとのコンビでリッキー・スティムボート&シェーン・ダグラスのWCW世界タッグ王座にも再三挑戦した[4]。
1994年11月23日に、茜ちよみ[5]の『ひたむきに ひたすらに・・・そして愛』のカップリング曲『縁は異なもの味なもの』で、茜ちよみとのデュエットでシングルCD・カセットをリリースしている[6]。12月からは再び素顔の佐々木健介としての活動がメインとなり、1997年には第30代IWGPタッグ王座を奪取(パートナーは長州力)。また、8月にはG1 CLIMAX初優勝、第32代IWGPタッグ王座奪取(パートナーは山崎一夫)、さらに橋本真也を倒し第20代IWGPヘビー級王座に就き、史上初の新日本プロレスタイトル3冠制覇を達成した。2000年には1月4日の東京ドーム大会で2度目となるIWGPヘビー級王座を天龍源一郎から奪取、また同年のG1 CLIMAXにも2度目の優勝を果たしたが、これは1995年大会の武藤敬司以来2人目となる、IWGPヘビー級王者としてのG1制覇だった。同年10月には全日本プロレス代表として乗り込んできた川田利明と新日本プロレスの代表として対戦するも敗北し、IWGP王座を返上した。翌2001年1月4日の東京ドーム大会では前年に健介自身が返上し空位となっていたIWGPヘビー級王座の新王者決定トーナメントが開催され、決勝戦で川田と対戦して勝利し、前年10月の雪辱を果たすとともに3度目のIWGPヘビー級王座獲得を果たした。
コスチュームは1990年代初期よりスパッツタイプを使用。しかし1997年、長州力の引退発表直後のG1クライマックスから黒いショートタイツに黒いリングシューズのみのストロングスタイルに変身する。
2000年12月10日にはIWGPで小原道由に6秒という当時の最速記録で勝利を手にした。しかし、17年後の2017年10月7日放送の『オールスター感謝祭2017秋』でこのクイズを出すために番組が再計測した結果、5秒47であることが判明した。この問題の正解者は19人だが、佐々木は6秒と答え不正解。妻と先輩も不正解だった。
長州政権下で本隊のエースとして君臨、闘魂三銃士と肩を並べる存在として絶頂にあった健介だったが、長州が実権を失いつつあった2000年後半頃より迷走を始める。
中でも2001年は健介にとっては悪夢とも言える年となった。3月スコット・ノートンに敗れてIWGPヘビー級王座を失った際、藤田和之へ「正直スマンかった」と発言。4月の大阪ドーム大会で藤田とタイトルを賭けてシングルが組まれる予定だったが、この発言に激怒した猪木の介入により対戦が取消になる。4月のドーム大会では代わりに橋本真也と対戦するも、健介は橋本の顔面への重爆キック一撃で失神KO。橋本戦敗北後は新日本隊のエースでありながら巡業を欠場して失踪する。後に総合格闘技の修行を行うため渡米していたと判明。現地のMMAの大会で勝利を上げる等の実績を重ねたとして、10月の東京ドーム大会で藤田和之との対戦が組まれたものの6分余りで完敗した。なお、この頃よりリングコスチュームを再びスパッツタイプに戻して現在に至っている。また、トレードマークであった長髪を剃り落として頭を丸め、以降は短髪を続けている。
2002年1月、小川直也とシングル戦で対戦するが両者セコンドの乱入等もあって無効試合に終わる。6月に鈴木健想、棚橋弘至、ブルー・ウルフと新ユニット「SWING-LOWS」を結成するも、当時の新日2大勢力であった本隊およびTEAM 2000の陰に埋没し、健介自身のWJプロレス移籍(後述)もあり暫くの後に雲散霧消した。
2002年11月、鈴木みのる戦を巡る交渉の過程で会社への不信感を理由に新日プロを退団(10月の東京ドーム大会寸前に退団を発表したため、「妨害行為」として藤波辰爾社長や永田裕志ら選手から激しい批判を浴びた)。移籍先は長州力を中心に設立されたプロレス団体WJプロレスであった。永島勝司らによる放漫な団体運営や観客動員数の低迷による給料未払い、有力選手の離脱など困難の中、2003年7月WMG(ワールド・マグマ・ザ・グレーテスト、WJのシングルベルト)初代王者決定戦トーナメントに優勝、9月には『X-1』へ参戦する等、エースとして優遇されるが、WJプロレスは崩壊、12月に退団した。
結婚式では仲人を務めて貰い、一時は二代目長州力を襲名する話[7]が持ち上がるほど良好だった師弟関係は、この団体崩壊に伴い、WJへ出資した資金が戻らなくなり、疎遠となった。興行に必要な会場代や外国人選手を呼ぶギャラ等の経費として健介は500万円を出資しており、この当時の佐々木家は息子のミルクを薄めて飲ますような経済状態で、自分や子供の保険などを解約して工面した資金を出資していた[8]。 一方、長州もこの当時、娘2人をイギリス留学させており、その際の生活費に月100万ほど掛かっていたとされ、WJ崩壊により金銭難に陥った。
2005年のWRESTLE-1 GRAND PRIX 2005トーナメント1回戦にて長州と対戦するも、現役選手としてピークを過ぎていた長州と全盛期の健介ではかつてのような熱戦にならず、序盤こそ長州の気合充分なロックアップが見られたが、結局健介が早々に繰り出したノーザンライトボムであっさり3カウントとなり終了。試合後に健介は「気持ちがわかりあえると思ったけど…」と現実を改めて痛感。北斗晶は「二度とやることはない」と絶縁宣言する。
しかしこの頃の健介は選手としては全盛期の入り口にあり、プロレスラーとしてのパフォーマンスも、観客に魅せる技術を向上させていた。折しもこの時期に次男が誕生している。
だが、自身がエースとなった後もWJは低迷し、造詣の深いプロレスファン以外に、リング上での変化は知られることも無かった。
その後の活躍への布石を見せながらも、プロレス界のどん底を這い回る状態であった。
フリーランス宣言して2004年を迎えたが、しばらく仕事がほとんど無い状態が続いた。糊口を凌ぐためにインディーズ団体への1日2試合出場などもこなしたが、経済的には窮地へと追い込まれてゆく。
そんな折、全日本プロレス社長の武藤敬司から参戦オファーを受ける。
その後自宅の小さな書斎に「健介オフィス」を設立(大会のスケジュールや、対戦カードなどはそこの書斎で、北斗と話し合って決めたという)。新日本や全日本などのメジャーからDDTプロレスリング(健介そっくりのキャラクターで戦う健心(藤沢一生)とタッグを結成している)のようなインディーまで幅広い団体に出場する。妻の北斗晶をマネージャー兼プロデューサーの「鬼嫁」として、「息子」こと中嶋勝彦を交えた「健介ファミリー」ではカカア天下キャラを押し出すパフォーマンス手法を確立して、観客アピールの幅を大きく広げる。
2004年度にはプロレス大賞MVPを受賞。この年、藤田和之からIWGPヘビー級王座を奪取したことが決め手となった。しかしこの試合では、技(チョークスリーパー)をかけつつ自ら後方に倒れこんだ藤田に対して3カウントを取るという不可解なレフェリングに疑問の声が挙がり、健介自身もリング上にベルトとトロフィーを置いたまま引き上げることで抗議の意思を示している。この裁定に妻・北斗晶は激怒。子供を抱えたままリングサイドにいた新日本プロレスのフロント陣を蹴りつけ、そのままインタビュールームに乗り込み、涙を流しながら「これが新日本のやり方か!? フリーだからと舐めるな!!」と叫ぶ。健介もトロフィーを廊下に投げつけて破壊し、ファミリーは早々に会場から引き上げた。これらの言動を当時世話になっていた天龍源一郎から「子供に悪影響を与えたらどうするんだ」と諌められた[9]。その後、天山広吉に敗れて王座から陥落。これ以降新日本に参戦することは無かった。
2005年7月18日、プロレスリング・ノア東京ドームで行われた対小橋建太戦では、常識を超えた逆水平の打ち合いを繰り広げ、この年のプロレス大賞ベストバウトに選ばれた。小橋との試合後、興奮が冷めないことと、小橋が試合後もトレーニングに励むと聞いたことから健介も控え室でチューブトレーニングなどを行った。翌日は試合はなく、ある雑誌の取材を受けていたが、小橋が「健介は今日も試合があると思ってトレーニングをしていた」という発言をしたと聞き、帰ってすぐトレーニングに励んだ。11月5日、NOAH日本武道館大会に参戦して、小橋とタッグ(小橋・潮崎豪組対健介・中嶋勝彦組)で対戦。翌年1月になっても胸の傷は治らなかった程の逆水平チョップの打ち合いを繰り広げた。
2005年12月14日に健介オフィスの株式会社化を発表、2006年2月11日にデビュー20周年の節目に初の自主興行を全日本プロレス、NOAHの協力の下後楽園ホールにて開催し、メインで小橋と組み中嶋勝彦と天龍源一郎とタッグマッチに出場した。7月16日、NOAH日本武道館大会で腎腫瘍摘出手術により欠場することになった小橋の代役として、左眼窩底骨折を隠してリングに上がり、この日に復帰戦を行った高山善廣とのタッグを結成した。これらの経緯もあって小橋と親交を深めることになり、NOAHに参戦するようになる。
2007年8月26日、三冠ヘビー級選手権試合で王者である鈴木みのると対戦。この試合のために新技「キングバスター」「ストラングルホールドZ」を開発した。42分の激闘の末にラリアットで下し、三度目の正直で、三冠王座初戴冠を果たした。その後、諏訪魔に敗れて王座陥落し主戦場をNOAHに移した。2008年9月6日、森嶋猛からGHCヘビー級王座を奪取し、プロレス史上初となる日本国内3大メジャー団体(新日本・全日本・NOAH)のヘビー級シングルタイトル奪取を達成した。
2012年2月11日、興行名を健介オフィス自主興行からダイヤモンド・リングに改称、所属もダイヤモンド・リングとなる。
2012年10月初めに行った精密検査の結果、2008年頃から症状が出ていた頚椎椎間板ヘルニアの悪化が認められ、治療のために長期欠場[10]。10月26日にレーザー手術が行われ成功した[11]。この首の負傷から練習がままならなくなり、後の引退に繋がったとする報道もある[12]。
2014年2月11日、東京・後楽園ホールでの愛弟子・中嶋勝彦とのシングルマッチで敗れた後に「もう思い残すことはない」と発言した後、2月13日に記者会見を開いて正式に現役引退を表明した[13]。健介は引退を決めた理由として「(中嶋)勝彦に負けたことが嬉しくなった。負けても悔しい気持ちにならなかった。その時に佐々木健介というレスラーは終わったのだと思った」と語り、中嶋勝彦との一戦を最後として引退試合、引退興行を行わずにこのままリングを去る意思も明らかにしている[13]。なお、健介の突然の引退に関しては、かつてダイヤモンド・リングに所属していた西川潤による内部告発が直接の原因であると、プロレス・ファンの間では囁かれている。
2014年4月11日、引退記念パーティーが東京で開かれ、選手、関係者ら約400人が出席。小橋建太らプロレス関係者、政界からはアントニオ猪木や馳浩が駆けつけた。野田佳彦前首相からはメッセージが届けられた。角界からも浅香山親方(元大関・魁皇)、芸能界からも小林幸子や榊原郁恵、竹内力、南原清隆、はるな愛、はしのえみらが“健介引退"を彩った[14]。
バラエティ番組では笑顔を見せることが多くプロレスラーとしての活躍の一方、テレビ朝日系『シルシルミシルさんデー』やTBS系『どうぶつ奇想天外!』、テレビ東京系の旅行番組などのバラエティ番組にも夫妻や一家で時折出演している。
テレビ朝日のバラエティ番組『いきなり!黄金伝説。』の人気コーナー「夫婦2人1週間5千円節約バトル」に夫婦で出場し、王者(防衛1回)になった。
2012年に放送された『24時間テレビ』のチャリティーマラソンを史上初の家族全員(健介自身と妻の北斗・長男・次男)でリレー形式で挑戦し、自身は第1区間の61.6kmを完走した。
総合格闘技 戦績 | ||||||
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2 試合 | (T)KO | 一本 | 判定 | その他 | 引き分け | 無効試合 |
2 勝 | 0 | 2 | 0 | 0 | 0 | 0 |
0 敗 | 0 | 0 | 0 | 0 |
勝敗 | 対戦相手 | 試合結果 | 大会名 | 開催年月日 |
○ | クリスチャン・ウェリッシュ | 1R 2:35 フロントネックロック | X-1 | 2003年9月6日 |
○ | ダン・チェイス | 1R 0:36 腕極め袈裟固め | Gladiator Challenge 5: Rumble in the Rockies | 2001年8月19日 |
パワー・ウォリアー(Power Warrior)は、佐々木健介が扮したペイントレスラー。ニックネームは「地獄葬戦士」。
1992年、アメリカ遠征中だった健介は、ロード・ウォリアーズのホーク・ウォリアーからの呼びかけでタッグチームを結成してパワー・ウォリアーと名乗った。同年11月9日、ミネアポリスでの小興行がデビュー戦で、日本には11月23日の新日本プロレスの両国国技館大会で初上陸(相手は長州力&馳浩組)。程なくスコット・ノートン&トニー・ホーム組を破りIWGPタッグ王座を奪取。1993年8月に奪取されるまで40連勝という、プロレス界の最高連勝記録を打ち立てた。このホークとのタッグはファン公募により、ヘルレイザーズと命名されて1990年代の新日を代表する名タッグチームとなった。
パワー・ウォリアー単独としては、1997年と2000年にグレート・ムタと対戦。ムタの十八番である毒霧を吹いたこともある。
フリーとなった後はレスラーとしての幅が広がり、ハワイ遠征時は将軍キャラ『KENSUKE』、闘龍門ジャパン / DRAGON GATE限定で、フロリダ・ブラザーズの一員の「博多生まれのアメリカ人」『ケンスキー佐々木』、みちのくプロレス限定の覆面レスラー『マスクド・ボルケーノ』など普段のファイトスタイルとは全く違った一面をリング上で発揮するようにもなっている。
2007年9月1日、エルドラドの近藤修司&"brother"YASSHIと対戦するために、封印していたパワー・ウォリアーを復活。ロード・ウォリアー・アニマルと共に「ヘル・ウォリアーズ」として戦った。また"brother"YASSHIもウォリアーのメイクで登場し、ウォリアー対決が実現した。
1. 佐々木健介『光を掴め! 佐々木健介自叙伝』メディアワークス、1999年