保定陸軍軍官学校(ほていりくぐんぐんかんがっこう)は、中国近代史上最初の正規陸軍軍学校である。河北省保定市(当時の省都)郊外にあり、保定軍官学校とも略称する。
前身は清朝の北洋軍閥の陸軍速成学堂、陸軍軍官学堂である。袁世凱が中華民国総統在任中開設された。1912年から1923年までの間に9期を経、6千人余りが卒業した。その後、黄埔軍官学校の教官となった者も多い。また1,600人以上が将軍となっている。
保定軍官学校は下級将校の養成を目的とし、修業期間は2年である。歩兵、騎兵、砲兵、工兵、輜重兵の5科に分れ、日本の陸軍士官学校をモデルとしている。教官も日本陸軍士官学校卒業者が多かった。最初の正式校長は趙理泰。
天津武備学堂を失い、列強の脅威にさらされていた清にとって近代的な将校の育成は急務であった。
1902年6月、保定の地に北洋行営将弁学堂が開校された。一期8か月の流れで三期545名の学生を輩出した[1]。更に、短期班練兵営、参謀学堂、測絵堂等が創設された。
1903年4月、袁世凱は各国の軍事教育を研究し、陸軍小学堂、中学堂、大学堂の三段階による教育方針を提唱した。翌1904年9月、これに兵官学堂を加えた四段階による正課学堂が『陸軍学堂辦法』として定められ、学堂が各地に開設されることとなった。だが、期間が余りにも長すぎる事から内部に不満の声も少なくなく、これとは別に速成学堂の開設が認められた[1]。
1903年10月、保定東郊に北洋軍政司練兵処の管轄として北洋陸軍速成武備学堂が開校された。この他、軍医学堂、馬医学堂、軍械学堂、経理学堂なども開校されたが、のちに武備学堂の師範班、軍械班、経理班等として吸収されている[1]。
1906年8月、北洋陸軍部の管轄となり、陸軍速成学堂(陸軍協和速成学堂とも)へと改称[1]、定額八百、2年制実習となる。また陸軍軍官学堂及び陸軍予備大学堂が併設された。1912年、陸軍予備大学堂は北京に移転し陸軍大学となる。10月、陸軍予備大学堂と陸軍速成学堂の跡地を利用し、保定陸軍軍官学校が開校した。
1920年、給料未払いから校内で暴動が起こり放火された。1923年8月、廃校となった。
以下の一覧は保定陸軍軍官学校及びその前身の出身者を含んでいる。
第一期(1912年8月秋入学、1914年11月卒業、1114名)
第二期(1914年初入学、1916年5-6月卒業、956名)
第三期(1914年8月入学、1916年8月卒業、801名)
第四期(1915年秋入学、1917年秋卒業、209名)
第五期(1916年6月入学、1918年9月卒業、630名)
第六期(1917年初入学、1919年春卒業、1333名)
第七期(1917年秋入学、1919年秋卒業、191名)
第八期(1918年8月入学、1922年7月卒業、638名)
第九期(1919年8月入學、1923年8月畢業、702名)