基本情報 | |
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国籍 | アメリカ合衆国 |
出身地 | ハワイ準州 |
生年月日 | 1926年5月10日[1] |
没年月日 | 2013年12月30日(87歳没) |
身長 体重 |
173 cm 60 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投右打 |
ポジション | 二塁手、遊撃手 |
初出場 | 1952年 |
最終出場 | 1952年 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
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この表について
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八道 勉(やじ つとむ、1926年5月10日 - 2013年12月30日[2] )はアメリカ合衆国ハワイ準州(Territory of Hawaii)出身[1]の元プロ野球選手。日系二世[3]。
フェリントン高等学校の先輩である小島勝治と共に、1952年にハワイから、ハワイの野球チーム(ハワイレッドソックス)[1]の選手として来日した。その後、西鉄ライオンズに入団。最初はビリー・ワイヤットの控えだったが、ワイヤットの故障(右手親指骨折)によりレギュラー獲得。5月15日の近鉄戦では、五井孝蔵投手から初回先頭打者本塁打を放った[1]。俊足・巧打の選手で主に1番を打ち、夏場に調子を上げたが、間もなく自身も故障。ワイヤットに再びレギュラーの座を奪われ、1952年限りで退団した。
尚、自身が付けていた背番号7は、翌年から豊田泰光が付けた[4]。豊田は週刊ベースボール上の自身が連載している記事「豊田泰光のオレが許さん!」にて、「八道さんは、あの”ウォーリー”与那嶺要さんと同じ高校で1年先輩。与那嶺さんが前年途中に巨人で背番号7を付けて颯爽とデビューしたのを見て、背番号7を付けたかった。球団側も与那嶺と一緒の番号で、という意向だった」と記している[3]。
年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1952 | 西鉄 | 55 | 140 | 125 | 19 | 28 | 7 | 0 | 1 | 38 | 12 | 7 | 2 | 1 | -- | 14 | -- | 0 | 16 | 2 | .224 | .302 | .304 | .606 |
通算:1年 | 55 | 140 | 125 | 19 | 28 | 7 | 0 | 1 | 38 | 12 | 7 | 2 | 1 | -- | 14 | -- | 0 | 16 | 2 | .224 | .302 | .304 | .606 |