なぜし 名瀬市 | |||||
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廃止日 | 2006年3月20日 | ||||
廃止理由 |
新設合併 名瀬市・大島郡笠利町・住用村 → 奄美市 | ||||
現在の自治体 | 奄美市 | ||||
廃止時点のデータ | |||||
国 | 日本 | ||||
地方 | 九州地方 | ||||
都道府県 | 鹿児島県 | ||||
市町村コード | 46207-1 | ||||
面積 |
127.68km2 (境界未定部分あり) | ||||
総人口 |
41,063人 (2006年1月1日) | ||||
隣接自治体 | 住用村、大和村、龍郷町 | ||||
市の木 | ガジュマル(1976年6月14日制定) | ||||
市の花 | ハイビスカス(1965年5月15日制定) | ||||
市の鳥 | なし | ||||
名瀬市役所 | |||||
所在地 |
〒894-8555 鹿児島県名瀬市幸町25番8号 | ||||
座標 | 北緯28度22分38秒 東経129度29分38秒 / 北緯28.37728度 東経129.49378度座標: 北緯28度22分38秒 東経129度29分38秒 / 北緯28.37728度 東経129.49378度 | ||||
ウィキプロジェクト |
名瀬市(なぜし)は、鹿児島県南部、奄美群島最大の島である奄美大島に所在した市。
県内離島自治体中最大の人口規模を有し、名瀬合同庁舎や大島支庁などの行政機関、文化施設や商業施設、物流等が集中する、奄美地方の中核都市であった。2006年3月20日、笠利町・住用村と合併し、奄美市となった。
「名瀬」という地名の由来は諸説あり、魚瀬(ナゼ)、空地(ナージ)、大島の中地(ナージ)などの説があるが定説はない[1]。「なぜ」が正しい読みであるが、地元では濁らず「なせ」(高低アクセントは「せ」が高い)と発音される場合も多い。
2006年の市町村合併によって、旧名瀬市内の全域が奄美市の地域自治区である「名瀬」となり、住所表記は「名瀬市○○(町)」から町名に地域自治区名を冠した「奄美市名瀬○○(町)」という表記に変更されていた。但し、地域自治区の設置期限は2016年(平成28年)3月31日までとなっており、それ以降の住所表記は地域自治区名を除いた「奄美市○○(町)」となっている[2]。
奄美大島の中部に位置し、東は大島郡龍郷町、西は大島郡大和村、住用村に接し、北は東シナ海、南は太平洋に面する。中央部は山林・原野で覆われた高原となっている。鹿児島港から西南海上383キロ。
市街地の密集度は鹿児島市に次いで高く、地価公示価格(商業地・住宅地)も鹿児島市に次いで高かった。本土並みの商業・公共施設が揃い、アーケード街等も充実している。屋仁川通りを中心とした飲食店街があり、経済圏は奄美群島全域に及ぶ、鹿児島県有数の都市であった。
657年(斉明天皇3年)『日本書紀』の条に「海見(あまみ)島」と見えるのが初見。古代には遣唐使南路の中継地として古代国家と接触があったが、郡郷は設置されなかった。やがて忘れられ、中世には按司(あじ)が発生、15世紀に琉球王国の支配下に入る。1609年薩摩藩の琉球征服により、1611年薩摩藩の直轄地となった。
特記なき場合『日本の歴代市長 : 市制施行百年の歩み』などによる[5]。
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
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1 | 加世田隆 | 1946年(昭和21年)7月1日 | 1952年(昭和27年)9月15日 | 旧名瀬町長 |
2 | 泉芳朗 | 1952年(昭和27年)9月16日 | 1953年(昭和28年) | 本土復帰 |
代 | 氏名 | 就任 | 退任 | 備考 |
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1 | 泉芳朗 | 1953年(昭和28年) | 1954年(昭和29年)1月8日 | |
2 | 牧義森 | 1954年(昭和29年)2月2日 | 1958年(昭和33年)2月1日 | |
3 | 大津鉄治 | 1958年(昭和33年)2月02日 | 1986年(昭和61年)2月19日 | |
4 | 豊永光 | 1986年(昭和61年)2月20日 | 1990年(平成2年)2月19日 | |
5 | 成田広男 | 1990年(平成2年)2月20日 | 1994年(平成6年) | 辞職 |
6 | 平田隆義 | 1994年(平成6年)11月20日 | 2006年(平成18年)3月19日 | 廃止 |
名瀬市廃止時点には下記があった。
市外局番:0997