『呉子』(ごし)は、春秋戦国時代に著されたとされる兵法書。武経七書の一つ。古くから『孫子』と並び評されていた[1]。しかし著者ははっきりとしない。中身の主人公でもある呉起またはその門人が著者であると言われるが、定かではない。
内容は呉起を主人公とした物語形式となっている。現存している『呉子』は六篇だが、『漢書』「芸文志」には「呉子四十八篇」と記されている。
非常に兵法に優れており、部隊編制の方法、状況・地形毎の戦い方、兵の士気の上げ方、騎兵・戦車・弩・弓の運用方法などを説いている。
『孫子』と並び評される兵法書であるとされるが、後世への影響の大きさは『孫子』ほどではない。これは内容が春秋戦国時代の軍事的状況に基づくものであり、その後の時代では応用ができなかったのが原因であると言われる。逆に『孫子』のほうは、戦略や政略を重視しているため、近代戦にまで応用できる普遍性により世界的に有名になっている。
古来、国家を治めようとする者は、かならず第一に臣下を教育し人民との結びつきを強化した。団結がなければ戦うことはできない。その団結を乱す不和が四つある。
したがって、道理をわきまえた君主は、人民を動員するまえに、まずその団結をはかり、それからはじめて戦争を決行する。また、開戦の決断は、自分だけの思いつきによってはならない。[2]
武侯が尋ねた。「敵の外観を見て内情を判断し、敵の進み方を見てどう止まるかを推測し、それによって勝てるかどうかを事前に判断したいと思うが、こうした事が分かるものだろうか?」
呉起は答えた。「敵の来襲する様子に、落ち着きが無く、旗印が乱れ、人馬がおどおどしている様ならば、それは確固たる方針のない証拠です。一の力で、十の敵を撃つ事ができます。敵は、手も足も出ないでしょう。また、どの国とも連合する事が出来ず、君臣は離間し、陣地は完成せず、法令は行き渡らない、この様な敵の軍勢は恐れおののき、進むも、退くも思うに任せない状態になります。こんな場合は、敵の半分の兵力で充分です。何回戦っても負ける心配はありません。」[3]
武侯が尋ねた。「戦争の勝利とは何によって決まるのだろうか?」
呉起は答えた。「勝利は治によって得る事が出来ます」
「兵力の多寡によるのではないのか?」
「法令が明確でなく、賞罰が公正を欠き、停止の合図をしても止まらず、進発の合図をしても進まなかったならば、百万の大軍があったとしても何の役にも立ちません。治とは即ち、平時では秩序正しく礼が行なわれ、戦時では威力を発揮し、進めば誰も阻止できず、退けば誰も追い得ず、進退は節度があり、左右はたちまち合図に応じ、連絡を絶たれても陣容をくずさず、散開しても隊列をくずさない。将兵が安危を共にし、結束していて離間させる事は出来ず、いくら戦っても疲労することはない。このような軍は、向う所敵無しです。これを指して父子の兵と言います」[4]
軍をひきいるには、武だけでなく文武を総合し、戦争をするには、剛だけでなく剛と柔とを兼ね備えなければならない。ふつう、世人が将を論ずる場合は、とかく、勇気という観点だけに立ちがちである。しかし、勇気ということは、将の条件の中の何分の一かにすぎない。勇者は、力を頼んで考えもなしに戦いをはじめる。利害を考えずに戦うのは、誉められた語ではない。
そこで、将の心すべきことが五つある。
ひとたび出陣の命令を受けたならば、家族にも知らせずそのまま出撃し、敵に勝つまでは家のことを口にしないのが、将たる者の礼である。いざ出陣というときには、名誉の死はあり得ても、生き恥は晒さないものと心得るべきである。[5]
武侯が尋ねた。「味方が少なく、敵が多い時、どうすればよいか?」
呉起は答えた。「平坦な場所で戦うことは避け、隘路で迎え撃ちます。古い諺に『一の力で十の敵を撃つ最善の策は狭い道で戦うことであり、十の力で百の敵を撃つ最善の策は険しい山地で戦うことであり、千の力で万の敵を撃つに最善の策は狭い谷間で戦うことである』とあります。かりに小人数でも、狭い地形をえらび鐸(たく)をうち鼓を鳴らして、不意打ちをかければ、いかに相手が多人数でも驚き慌てます。ですから、『多数を率いるものは、平坦な戦場を選ぼうとし、少数を率いるものは、狭隘な戦場を選ぼうとする』といわれています。」[6]
武侯が尋ねた。「賞罰を公正にすれば、勝利を得る事が出来るだろうか?」
呉起が答えた。「私ごときに判断できる問題ではありませんが、賞罰はそれ自体、勝利の保証とはならないかと存じます。
この三つの条件が満たされてこそ、勝利は保証されるのです」
「どうすればよいか?」
「功績のある者を、抜擢して手厚く遇することはもちろん、功績のない者に対しても激励のことばをかけてやるのです」[6]