土佐 光祐(とさ みつすけ、延宝3年2月20日(1675年3月16日) - 宝永7年7月9日(1710年8月3日))は、日本の江戸時代前期から中期にかけて活躍した土佐派の絵師。初名は光高。幼名は藤満丸。通称は左兵衛尉。法名は常心。
土佐光成の子として京都に生まれる。弟に土佐光親、祖父に土佐派中興の祖・土佐光起がいる。元禄9年12月28日(1697年1月20日)数え22歳で父の跡をついで画所預となり、正六位下・左近衛将監に任ぜられる[1]。なお、この時は「土佐光高」名で叙位・任官されており、元禄12年(1999年)7月に描かれた粉本でも光高署名なため、光祐を名乗るのはこれ以降である。宝永6年(1709年)の宝永度内裏造営では、狩野常信らと共に障壁画を担当し、常御殿御三間に《栄花物語図》、剣璽之間に《四季之花鳥図》を手掛けた。翌年に父・光成を亡くすと、墓所の知恩寺に土佐家累代供養塔を建立するが、自身もその直後に急死してしまう。享年36。墓所は同じく知恩寺。跡は息子の土佐光芳が継いだ。弟子に西川祐信など。夭折したため作品数は少ないが、繊細で華麗な色彩に早熟の才を感じさせる。
作品名 | 技法 | 形状・員数 | 寸法(縦x横cm) | 所有者 | 年代 | 落款 | 印章 | 備考 |
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新田義貞図絵馬 | 板絵著色 | 絵馬1面 | 130x220 | 北野天満宮 | 1692年(元禄5年) | 「土佐左兵衛尉光高」 | ||
神馬図 | 六孫王神社 | 「正六位下土佐左近衛将監光高筆」 | ||||||
源氏物語絵巻 薄雲 | 1巻 | 石山寺 | ||||||
栄花物語図屏風 | 紙本金地著色 | 六曲一双 | 155.9x361.6(各) | 東京国立博物館 | ||||
洛中洛外図屏風 | 紙本金地 | 六曲一双 | 153.0x361.6(各) | サントリー美術館 | 「土佐藤原光高画」 | 右隻に印文不明印・左隻に「藤原」白文方印 | 伝土佐光高筆[2] | |
定家詠十二ヶ月和歌花鳥図色紙貼交屏風 | 紙本著色 | 六曲一双 | 真宗大谷派高山別院照蓮寺 | 「正六位下土佐左近衛将監光高筆」 | 印文不明朱文方印[3] | |||
定家詠月次花鳥歌絵巻 | 妙満寺 | |||||||
三十六歌仙色紙帖 | 絹本著色 | 1帖 | 20.5x18.0(各) | センチュリーミュージアム | 「正六位下土佐近衛将監光高筆」 | 冷泉為満賛[4] | ||
三十六歌仙書画色紙帖 | 名古屋市博物館 | 1686-91年(貞享3年-元禄4年)頃 | 伝土佐光祐筆[5]、近衛基熙ほか35名の寄せ合い書きで、巻頭の近衛基熙が他の執筆者より高位な時期に制作されたと推測され、配列はほぼ官職降順で並んでいる[6]。 | |||||
土佐家累代肖像 土佐光成(岳性院)像 | 絹本著色 | 1幅 | 84.1x41.1 | 京都国立博物館 | ||||
建保中殿御会図 | 京都市立芸術大学芸術資料館 | 伝醍醐冬基詞書。 | ||||||
鶴図 | 絹本著色 | 1幅 | 165.2x82.8 | クラクフ国立美術館 | 「正六位下土佐左近衛将監光祐圖」 | 「光祐」白文方印 | 文正筆「鳴鶴図」(相国寺蔵、重要文化財)左幅の模写[7]。 | |
釈迦三尊像 | 絹本著色 | 1幅 | 雲照寺(渋谷区) | 1710年(宝暦7年)頃 | 渋谷区指定文化財。元は宝暦7年8月に神鳳律寺(現在の大阪府堺市)に寄進されたもの[8] |