やまとや あつし 大和屋 竺 | |
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『映画評論』1967年2月号より | |
生年月日 | 1937年6月19日 |
没年月日 | 1993年1月16日(55歳没) |
出生地 | 日本・北海道三笠市 |
職業 | |
ジャンル | |
活動期間 | 1965年 - 1992年 |
大和屋 竺(やまとや あつし、1937年6月19日 - 1993年1月16日)は、日本の脚本家、映画監督、俳優。アニメーション脚本家、中央競馬馬主の大和屋暁は息子。
1937年6月19日、北海道三笠市幌内町に生まれる。父は炭鉱労働者、母は没落旧家の出身だった[1]。
1953年、父の停年退職に伴い、一家で上京。葛飾区青砥に住む[1]。
1958年、2年間の浪人生活を経て早稲田大学第一文学部に入学(専攻は日本史)。在学中は田中陽造らと「稲門シナリオ研究会」に所属し、田中の脚本で16ミリ映画『一・〇五二』を監督した[注 1]。
1962年、早稲田大学卒業。日活株式会社助監督部(第8期)に入社。同期に岡田裕、曽根義忠(中生)、山口清一郎らがいた。主に斎藤武市の助監督を務め、牛原陽一、中平康、野口博志、滝沢英輔らにもついた[1]。
1964年、日活助監督グループの一員として若松孝二の元に出入りするようになる[1]。
1965年、若松孝二監督『情事の履歴書』の脚本を曽根義忠、榛谷泰明と共同で執筆。ペンネームは3人の名前を組み合わせた「大谷義明」。また、この年、日活を休職してボルネオ、シンガポールを放浪。しかし、現地で金が尽き、若松孝二に送金を仰いで11月に帰国。この借金返済のために監督することになったのが第1回監督作品である『裏切りの季節』である。プロデュースは若松孝二、公開は1966年5月[1]。
1966年6月、日活を退社、本格的に若松プロに参加。また、この年、足立正生、沖島勲も若松プロに参加している。一方、曽根義忠に誘われて鈴木清順を中心とする脚本家グループ「具流八郎」に参加。メンバーは鈴木清順、木村威夫、田中陽造、曽根義忠、岡田裕、山口清一郎、榛谷泰明に大和屋竺を加えた8人だったとされる[注 2]。
1967年6月、この「具流八郎」名義のシナリオとしては唯一の映画化作品となった『殺しの烙印』が公開される。大和屋竺は「具流八郎」の中心メンバーとして前半部分を担当するとともに俳優としても出演(演じたのはナンバー4の殺し屋である「スタイリストの高」)。また主題歌の「殺しのブルース」(作詞:具流八郎、作曲:楠井景久)も唄った。完成した作品は批評家や若い映画ファンに熱狂的に支持されたが、当時の日活社長・堀久作は完成した作品を観て激怒。翌年の年頭社長訓示において、本作品を「わからない映画を作ってもらっては困る」と名指しで非難し、同年4月には、鈴木に対し電話で一方的に専属契約の打ち切りを通告した。日活を追われた鈴木清順は、以後、1977年の『悲愁物語』まで丸10年、不遇の時代を過ごすことになる。なお、鈴木清順解雇の知らせを受けた大和屋竺は「今までの生涯でただ一度大声を出して泣いた」という[1]。10月、第2回監督作品『荒野のダッチワイフ』が公開される。プロデュースは国映の矢元照雄。製作費は240万円だった。
1968年、再び若松プロで『毛の生えた拳銃』を監督。脚本の「大山村人」は大和屋竺の変名(他にも「大山敦」「日野洸」「出口出」「宗豊」などの変名が知られている)。なお、この映画を見た東京ムービーの大隅正秋がTVアニメ『ルパン三世』の脚本を依頼。以来、大和屋竺は同シリーズに脚本・監修として関わることになる。
1973年、内藤誠監督の依頼で『番格ロック』の脚本を山本英明と共同執筆[3]。また荒戸源次郎のプロデュースで5年ぶりとなる新作『愛欲の罠』(原題は『朝日のようにさわやかに』。『愛欲の罠』は日活で配給される際に付けられたタイトル[3])を監督。これが天象儀館の第1回映画作品となる。
1974年、内藤誠の紹介で東映教育映画部製作の『発見への出発(たびたち)』を監督。助監督は柳町光男だった。また荒戸源次郎製作、平岡正明脚本で『朝日のようにさわやかに 食用美人篇』の企画が持ち上がるが実現しなかった[1]。
1977年、鈴木清順の10年ぶりの新作となる『悲愁物語』の脚本を書く。なお、本作で主役を務めた原田芳雄と大和屋竺はかねてより親交があり、この時も大和屋竺が具流八郎名義で書いた「ゴーストタウンの赤い獅子」を『映画評論』で読んだ原田芳雄が「なんとか映画化したいと思って、大和屋さんのところに相談しに行った。清順さんは『殺しの烙印』から10年近くたってたから、そろそろどうかなって」。ところが、既に次回作が決まっており、それが『悲愁物語』だったという[4]。もしこの時、『悲愁物語』の企画が立ち上がっていなければ、鈴木清順の10年ぶりの新作は「ゴーストタウンの赤い獅子」だった可能性もある。
1984年、テレビ東京で『20才のストリッパー美加マドカ 裸の履歴書』を監督。放映日は1984年5月18日。
1990年8月、大和屋竺が関った劇場用一般映画としては最後の作品となった『オーロラの下で』が公開される。戸川幸夫の原作『オーロラの下で』を舞台をアラスカからロシア革命前後のシベリアに移すなど、大幅に改変した。
1993年1月16日、食道がんのため死去。55歳没[1]。3月、日本映画プロフェッショナル大賞特別賞を受賞。授賞理由は「映画の極北で輝き続けた異端の巨星を悼んで」[5]。
1994年、荒井晴彦、竹内銃一郎、福間健二編『悪魔に委ねよ 大和屋竺映画論集』(ワイズ出版)、高橋洋、塩田明彦、井川耕一郎編『荒野のダッチワイフ 大和屋竺ダイナマイト傑作選』(フィルムアート社)が刊行される。