太田 芳郎(おおた よしろう[1][2]、1900年(明治33年)1月11日[1] - 1993年(平成6年)3月29日[1][2])は、日本のテニス選手。新潟県出身[1]。第二次世界大戦前の日本テニス黄金時代に活躍した選手の一人で、戦後もテニスの国際交流と普及につとめた。
「出身地」は新潟県刈羽郡刈羽村赤田北方という[3]。両親は教員[3]。柏崎尋常高等小学校(現在の柏崎市立柏崎小学校)の高等科に進み、テニスに没頭[3]。新潟師範学校(新潟大学教育学部の前身)で学ぶ[3]。柏崎でテニス愛好家団体「柏陽倶楽部」を組織していた洲崎義郎(早稲田大学卒、比角村の名望家出身で村長を務めた。戦後に柏崎市長)[4]の招きを受け、柏陽倶楽部メンバーや早稲田大学の部員と練習を行い、指導を受けた[3]。比角尋常高等小学校(現在の柏崎市立比角小学校)の教員を務めたのち[3]、東京高等師範学校(筑波大学の前身)に入学[3]。東京高等師範学校英語科卒業[2]。1924年パリオリンピックに福田雅之助・原田武一・岡本忠とともに出場する予定であったが、病気のために不参加となり、本田朝次が代わって参加した[5]。
1926年(大正15年)の全日本選手権シングルスで優勝[2]。1927年(昭和2年)から4年間イギリスに留学し[1]、その間にデビスカップ日本代表チームに加わり[1][6]、4年連続出場。1927年には原田武一・鳥羽貞三・清水善造・太田芳郎・三木龍喜のメンバーでインターゾーン決勝に進み(日本のインターゾーン決勝進出は前年から2年連続)、欧州ゾーンの優勝国フランスと対戦した[7] (1927 International Lawn Tennis Challenge) 。太田はフォア・ハンドの豪球が持ち味で[2]、デビスカップのほかにもヨーロッパの各種大会で活躍し[2]、シングルス連続優勝7回の快挙を果たしている[6]。1931年(昭和6年)、国際テニスクラブ名誉会員[3]。
現役引退後は東京体育専門学校(筑波大学体育専門学群の前身)教授や[2]、東京ローンテニスクラブ支配人を務めた[2]。1967年(昭和42年)から1969年(昭和44年)にデビスカップ監督[2]。
日本庭球協会常務理事などを務め[1]、テニスの国際交流と普及につとめた[1]。
第二次世界大戦後に東京都東村山市に居を定め[2]、1956年(昭和31年)から12年にわたり東村山市教育委員会委員長を務める[8]。その間1964年(昭和39年)に東村山市体育協会設立に尽力し、10年間会長職にあった[8]。太田の縁で、1976年(昭和51年)に東村山市体育協会と柏崎体育団のスポーツ姉妹提携が結ばれ[8][9]、東村山市と柏崎市のスポーツ交流が始まった[8][10][2][9]。なお、東村山市と柏崎市は、太田の死去後の1995年(平成8年)に姉妹都市提携を結んでいる[3][9]。
1990年(平成3年)11月、東村山市名誉市民の称号を贈られる[8]。