孫 輔(そん ほ、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は国儀。父は孫羌。兄は孫賁。従弟は孫策・孫権。子は孫興・孫昭・孫偉・孫昕・駱統妻。孫は孫奇[1]。『三国志』呉志「宗室伝」に記述がある。
幼少の頃に両親に先立たれ、兄に養育された。
孫策が挙兵するとそれに従って揚武校尉となり、江東三郡の平定で功績を挙げた。孫策が丹陽郡の七県を平定したときは、袁術の干渉を阻止するため歴陽に軍営を置き、同時に逃走した民衆を呼び寄せる任務を担った。孫策が祖郎[2]を攻撃したときも、それに従軍した。
孫策が劉勲を攻撃したときも従軍し、孫輔は自ら軍の先頭に立って戦い功績を挙げた[3]。その後、孫策により新設された廬陵太守を任され統治にあたった。平南将軍まで昇進し、交州刺史に任じられると共に仮節を与えられた。
孫権が後を継ぐと、曹操へ内密に使者を送っていたことが発覚し、幽閉された[4]。
それから数年後に死去した。子は皆それなりの地位に就いたという。