安岡章太郎 (やすおか しょうたろう) | |
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1954年頃 | |
誕生 |
1920年5月30日 日本・高知県高知市 |
死没 |
2013年1月26日(92歳没) 日本・東京都(詳細は非公開) |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
最終学歴 | 慶應義塾大学英文科 |
活動期間 | 1951年 - 2013年 |
ジャンル | 小説・随筆・文芸評論 |
文学活動 | 第三の新人 |
代表作 |
『ガラスの靴』(1951年) 『悪い仲間』(1953年) 『海辺の光景』(1959年) 『質屋の女房』(1963年) 『幕が下りてから』(1967年) 『流離譚』(1981年) 『鏡川』(2000年) |
主な受賞歴 |
芥川龍之介賞(1953年) 芸術選奨(1960年) 野間文芸賞(1960年・1988年) 毎日出版文化賞(1967年) 読売文学賞(1974年・1996年) 日本芸術院賞(1975年) 日本文学大賞(1982年) 川端康成文学賞(1991年) 勲三等瑞宝章(1993年) 朝日賞(1992年) 大佛次郎賞(2000年) |
デビュー作 | 「ガラスの靴」(1951年) |
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安岡 章太郎(やすおか しょうたろう、1920年(大正9年)4月18日[1] - 2013年(平成25年)1月26日)は、日本の小説家。高知市生まれ。北満に応召されるも結核により除隊。第二次世界大戦後、病臥の中で小説を書き、芥川賞候補となった『ガラスの靴』で登場。劣等生を以て自認し[2]、個人や市民の内面を掘り下げた私小説的作品で、「第三の新人」の一人と目された[3]。米国留学後はエッセイでも活躍[4]。日本芸術院会員。文化功労者。
高知県高知市帯屋町に父・安岡章、母・恒の子として生まれる。父方は、安岡正美(覚之助)や安岡正定(嘉助)などの土佐勤王党員を多く輩出した土佐藩士の安岡家であり、幕末は板垣退助率いる土佐藩迅衝隊に加わり戊辰戦争を戦った勤皇家である。母方の入交家も江戸時代は郷士だったという。高知県香南市山北には父方の安岡家住宅(国指定重要文化財)が現存している。
章太郎の父は陸軍獣医官であったため、生後2ヶ月で千葉県市川市に転居[5]。その後、香川県善通寺市、東京小岩、市川市で過ごした後、5歳の時、一家で京城(現・ソウル)に移った[5]。小学校3年の時、青森県弘前市に転居[5]。小学校5年から東京青山、目黒などで育った[5]。各地を転々とする途次、安岡家は郷里に立ち寄り、「お国に帰る」と呼んでいた[6]。
青南小学校から第一東京市立中学校に入学するが、素行不良のため、教師の実家であった禅寺に寄宿生活を強いられる。この生活は3年に肋膜炎を患うまで続いた。
青南小学校以来、軍隊除隊までの劣等生への風当たりは小説やエッセイで再三文章にしており、病気、落第と共に彼の重要な文学的動機になっている。
1939年、旧制高知高等学校を受験するが失敗[7]。浪人生活を城北高等補習学校で送り、古山高麗雄ら浪人仲間と日々遊び歩いた。1940年、松山高等学校や山形高等学校の受験に失敗し[8]、1941年、当時定員割れを起こしていた慶應義塾大学文学部予科に入学するも、1944年に陸軍に学徒動員で召集され東部第六部隊へ入営し、満州・孫呉に在った歩兵第1連隊に配属された。部隊では射撃の最優秀兵であったが「銃の手入れが悪い」と叱責される模範的でない兵隊であった。しかし、安岡は部隊が南方へ出発する前々日に発熱し、翌1945年に肺結核により除隊処分となり内地送還された。なお、部隊は1944年8月にフィリピンへ動員され、同年10月から始まったレイテ島の戦いに投入されて全滅したために数少ない生き残りの一人となる。
戦後、復学するも陸軍少将の父は敗戦により失職し、復員後も公職にはつけなかった。そのため、家族は収入のほとんどを失った。1945年10月から1952年10月まで、藤沢市鵠沼に住む[9]。1945年ごろ結核菌による脊椎カリエス(結核性脊椎炎)を患い[9]、大きな肉体的・精神的苦痛の中で1948年に英文学科を卒業する。その当時コルセットをつけながら、吉行淳之介や阿川弘之と盛り場などを遊び歩いたと言う。1949年には脊椎カリエスが悪化し、コルセットをつけて寝たきりとなる[9]。
1951年「ガラスの靴」が上半期の第25回芥川賞の候補作に選ばれ[10]、文壇に注目される。1952年上半期には「宿題」が第27回芥川賞候補作に[11]、下半期には「愛玩」が第28回芥川賞候補作となる[12]。1953年上半期、『悪い仲間』『陰気な愉しみ』により、第29回芥川賞を受賞する[13]。
1954年には脊椎カリエスが快癒[14](自然治癒したものの、病気のため背丈が数センチメートル縮んだという)。同年4月、平岡光子と結婚[15]。創作活動に意欲的に取り組む。『流離譚』では土佐藩での祖先の事跡を調査、『果てもない道中記』では中里介山『大菩薩峠』を論じた。
1960年代初頭に約半年間、ロックフェラー財団の基金で米国に留学、公民権運動たけなわのテネシー州ナッシュビルに滞在し、その経験を『アメリカ感情旅行』としてまとめる。その後も米国に対する関心を深くもち、アフリカ系アメリカ人の先祖を探った作品『ルーツ』(アレックス・ヘイリー著)の翻訳もしている。
批評家としても文壇の評価が高かった安岡は、芥川賞をはじめ大佛次郎賞や伊藤整文学賞選考委員も務めた。また学校国語教科書に、1955年著の「サアカスの馬(サーカスの馬)」が採用されている。
安岡の没後、遺族より原稿や書簡など約4,000点の資料が神奈川近代文学館に寄贈され、「安岡章太郎文庫」として保存されている[17]。
2016年10月1日から11月27日まで、神奈川近代文学館にて特別展「安岡章太郎展――〈私〉から〈歴史〉へ」が開催された[17][18]。初めて開催される安岡の総合的な展覧会で[17][18]、編集委員は黒井千次がつとめた[18]。安岡を高く評価する村上春樹が展覧会図録に寄稿した[17]。同展覧会は高知県立文学館でも2019年に開催された[19]。
章太郎の101回目の記念日にあたる2021年4月18日、山北文化の会の呼び掛けで高知県香南市山北の安岡家住宅に文学碑が建立された[6]。
第25回芥川賞の選考では、岸田國士や坂口安吾など安岡の「ガラスの靴」を評価する選考委員もいたが、佐藤春夫や瀧井孝作は一作だけではまだ評価できないとし、授賞には至らなかった[20]。
第29回芥川賞の9人の選考委員の選評によると、安岡への授賞を特に支持したのは丹羽文雄だった[21]。丹羽は「悪い仲間」より「陰気な愉しみ」の方を評価している[13]。宇野浩二は「この二つの作品にも頸をひねる」「『陰気な愉しみ』は、すっと読めるが、たよりなさ過ぎ、『悪い仲間』は、『愛玩』よりずっと落ちる上に、趣向は面白いけれど、荷が勝ち過ぎているように思われる」と評した[22]。石川達三は「感覚だけの作品」「それ以上のものが私には解らない」「私はちっとも新しいとは思わない」などと反対した[23]。佐藤春夫は「今回のところ安岡の作品が最も賛成」とし、「陰気な愉しみ」より「悪い仲間」を高く評価した[24]。岸田國士は「いずれも稀にみるすぐれた才能を示した短篇小説だが、これだけとしては出来栄えにやや物足りないところがある」「この作者は、もっといいものの書けるひとだ」と評した[25]。瀧井孝作は「安岡章太郎氏の短篇は、前にいくつか佳いのを読んだ。こんどの二つも悪くない」として授賞に賛成した[26]。舟橋聖一は「悪い仲間」への授賞には納得できるが「陰気な愉しみ」は未熟であるとした[27]。坂口安吾は安岡を「いつ芥川賞をもらってもフシギのない作家」と評し、「陰気な愉しみ」や「悪い仲間」よりも優れた作品が過去にあるが「このような独特な作家の場合は一作について云々すべきではない」と述べた[28]。川端康成は、安岡への授賞には賛成しつつ、過去の候補作「愛玩」や「ガラスの靴」の方を高く評価した[29]。
村上春樹は安岡を「戦後の日本の小説家の中でいちばん文章がうまい人」と評しており、特に初期の短編は「どれもまさに舌を巻く出来」だと述べている[30]。