小沼 丹 (おぬま たん) | |
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1954年(昭和29年) | |
誕生 |
小沼 救(おぬま はじめ) 1918年9月9日 東京府東京市 |
死没 | 1996年11月8日(78歳没) |
墓地 | 小平霊園4-11-56 |
職業 | 小説家・大学教授 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(文学) |
最終学歴 | 早稲田大学英文科 |
活動期間 | 1939年 - 1996年 |
ジャンル | 小説・随筆・評論 |
文学活動 | 第三の新人 |
代表作 |
『村のエトランジェ』(1954年) 『懐中時計』(1969年) 『椋鳥日記』(1974年) 『小さな手袋』(1976年) |
主な受賞歴 |
読売文学賞(1970年) 平林たい子文学賞(1975年) 勲三等旭日中綬章(1992年) |
デビュー作 | 『千曲川二里』(1939年) |
影響を受けたもの
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ウィキポータル 文学 |
小沼 丹(おぬま たん、1918年〈大正7年〉9月9日 - 1996年〈平成8年〉11月8日)は、日本の小説家、英文学者。位階は従四位。本名は小沼 救(おぬま はじめ)。日本芸術院会員。
「大寺さんもの」など、日常を題材とした小説のほか、随筆の名手としても知られる。また、英文学者としても知られており、早稲田大学では文学部教授として教鞭を執った。
東京府東京市下谷区下谷町に父邁(すぐれ)、母涙子(るいこ)の長男として生まれる。明治学院中学部、高等学部英文科を経て、1942年(昭和17年)に、早稲田大学文学部英文科を卒業した。後年、1958年(昭和33年)から、母校早稲田大学文学部で教授を務めている。
明治学院在学中の1939年(昭和14年)に『千曲川二里』を発表。同小説の掲載誌を井伏鱒二に寄贈、後に訪問し、師と仰いだ。お互いの晩年に、交流記を著書『清水町先生』にまとめている。
英文学研究のかたわら小説を書いてゆき、1954年(昭和29年)に『村のエトランジェ』が評価され、翌年には「白孔雀のいるホテル」で芥川賞候補となった。1969年(昭和44年)『懐中時計』で読売文学賞受賞、1974年(昭和50年)『椋鳥日記』で平林たい子文学賞受賞。1989年(平成元年)日本芸術院会員。1992年(平成4年)勲三等旭日中綬章受章[1]。
1996年(平成8年)11月8日、肺炎のため78歳で死去。