小野篁像(『集古十種』より) | |
時代 | 平安時代初期 |
生誕 | 延暦21年(802年) |
死没 | 仁寿2年12月22日(853年2月3日) |
別名 | 野相公、野宰相、野狂 |
官位 | 従三位・参議、左大弁 |
主君 | 嵯峨天皇→淳和天皇→仁明天皇→文徳天皇 |
氏族 | 小野氏 |
父母 | 父:小野岑守 |
兄弟 | 篁、千株、藤原敏行室 |
妻 | 藤原三守娘 |
子 | 俊生、良真、葛絃、忠範、保衡[1]、利任 |
特記 事項 | 一説には小野小町、小野道風の祖父 |
小野 篁(おのの たかむら、延暦21年〈802年〉- 仁寿2年12月22日〈853年2月3日〉)は、平安時代初期の公卿、文人。 参議・小野岑守の長男。官位は従三位、参議。異名は野相公、野宰相、その反骨精神から野狂とも称された。小倉百人一首では参議篁(さんぎたかむら)。
弘仁6年(815年)に陸奥守に任ぜられた父・岑守に従って陸奥国へ赴き弓馬をよくした。しかし、帰京後も学問に取り組まなかったことから、漢詩に優れ侍読を務めるほどであった岑守の子であるのになぜ弓馬の士になってしまったのか、と嵯峨天皇に嘆かれた。これを聞いた篁は恥じて悔い改めて学問を志し、弘仁13年(822年)文章生試に及第した[2]。
淳和朝初頭の天長元年(824年)巡察弾正に任ぜられた後、弾正少忠・大内記・蔵人を経て、天長9年(832年)従五位下・大宰少弐に叙任される。この間の天長7年(830年)に父・岑守が没した際は、哀悼や謹慎生活が度を過ぎて、身体容貌が酷く衰えてしまうほどであったという[2]。天長10年(833年)に仁明天皇が即位すると、皇太子・恒貞親王の東宮学士に任ぜられ、弾正少弼を兼ねる。また、同年完成した『令義解』の編纂にも参画して、その序文を執筆している。
承和元年(834年)遣唐副使に任ぜられる。承和2年(835年)従五位上、承和3年(836年)正五位下と俄に昇叙されたのち、承和3年と翌承和4年(837年)の2回に亘り出帆するが、いずれも渡唐に失敗する。承和5年(838年)三度目の航海にあたって、遣唐大使・藤原常嗣の乗船する第一船が損傷して漏水したために、常嗣の上奏により、篁の乗る第二船を第一船とし常嗣が乗船した。これに対して篁は、己の利得のために他人に損害を押し付けるような道理に逆らった方法が罷り通るなら、面目なくて部下を率いることなど到底できないと抗議し、さらに自身の病気や老母の世話が必要であることを理由に乗船を拒否した(遣唐使は篁を残して6月に渡海)[2]。のちに、篁は恨みの気持ちを含んだまま『西道謡』という遣唐使の事業を(ひいては朝廷を)風刺する漢詩を作るが、その内容は本来忌むべき表現を興に任せて多用したものであった[3]。そのため、この漢詩を読んだ嵯峨上皇は激怒して、篁の罪状を審議させ、同年12月に官位剥奪の上で隠岐国への流罪に処した[3]。なお、配流の道中に篁が制作した『謫行吟』七言十韻は、文章が美しく、趣きが優美深遠で、漢詩に通じた者で吟誦しない者はいなかったという[2]。
承和7年(840年)赦免により帰京し、翌承和8年(841年)には文才に優れていることを理由として特別に本位(正五位下)に復され[4]、刑部少輔に任ぜられる。承和9年(842年)承和の変により道康親王(のち文徳天皇)が皇太子に立てられるとその東宮学士に任ぜられ、まもなく式部少輔も兼ねた。その後は、承和12年(845年)従四位下・蔵人頭、承和13年(846年)権左中弁次いで左中弁と要職を歴任する。権左中弁の官職にあった承和13年(846年)に当時審議中であった善愷訴訟事件において、告発された弁官らは私曲を犯していなくても、本来は弁官の権限外の裁判を行った以上、公務ではなく私罪である、との右少弁・伴善男の主張に同意し、告発された弁官らを弾劾する流れを作った。しかし、後年篁はこの時の判断は誤りであったとして、悔いたという[5]。承和14年(847年)参議に任ぜられて公卿に列す。のち、議政官として、弾正大弼・左大弁・班山城田使長官・勘解由使長官などを兼帯し、嘉祥2年(849年)に従四位上に叙せられるが、同年5月に病気により官職を辞す。
嘉祥3年(850年)文徳天皇の即位に伴い正四位下に叙せられる。仁寿2年(852年)一旦病が癒えて左大弁に復帰するが、まもなく再び病を得て参朝が困難となった[2]。天皇は篁を深く憐れみ、何度も使者を遣わせて病気の原因を調べさせ、治療の足しとするために金銭や食料を与えたという[2]。同年12月には在宅のまま従三位に叙せられるが、間もなく薨去[2]。享年51。最終官位は参議従三位兼行左大弁。
『令義解』の編纂にも深く関与するなど明法道に明るく、政務能力に優れていた。また、漢詩文では白居易と対比されるなど、平安時代初期の三勅撰漢詩集の時代における屈指の詩人であり、『経国集』『扶桑集』『本朝文粋』『和漢朗詠集』にその作品が伝わっている。『野相公集』(5巻)があり、鎌倉時代までは伝わったというが、現在は散逸。一方で和歌にも秀で、『古今和歌集』(8首)以下の勅撰和歌集に14首が入集している[6]。歌集として『小野篁集』があるが、内容は物語的で篁以外の手による和歌も含まれており、『篁物語』とも呼ばれる。
書においても当時天下無双で、草隷の巧みさは王羲之・王献之父子に匹敵するとされ、後世に書を習うものは皆手本としたという[2]。
非常な母親孝行である一方、金銭には淡白で俸禄を友人に分け与えていたため、家は貧しかったという。危篤の際に子息らに対して、もし自分が死んでも決して他人に知らせずにすぐに葬儀を行うように、と命じたとされる[2]。
身長六尺二寸(約188cm)の巨漢でもあった[2]。なお、当時(平安時代)の男性の平均身長は159.5~163.5cmほどであった[要出典]。
注記のないものは『六国史』による。
注記のないものは『尊卑分脈』による。
武蔵七党の猪俣党や横山党などの武士は小野篁の子孫を称して、小野にちなんで「野太郎」「小野太」などと称している。また、それからの転化で「弥太郎」や「小弥太」と称した者もいる。なお、猪俣党や横山党の出自については、小野篁の後裔とするもののほか、武蔵国造の末裔とする説もある[32](詳細は猪俣党・横山党の各項を参照)。
京都市北区紫野西御所田町の島津製作所紫野工場の一角に、紫式部のものと隣接した墓所がある。
加賀・前田藩の家臣で、小野篁の子孫と称する横山政和が小野篁の墓が荒れているのを歎き、塋域に石柵を設け、墓標を設けた際にこの碑を建てたものであるという。
広島県東広島市河内町入野(にゅうの)地区には小野篁の伝説があり、生誕地とされる篁山竹林寺ほか所縁の地がある。
伝説ではこの山の麓に八千代という女性がおり、八千代は常に竹林寺の本尊 千手観音を信仰し、千日の参詣を続け満願の日の夜半に堂宇の中から童子が現れ五色の玉を彼女に授けた。やがて八千代は延暦21年(802)の春、男子を出産。そのとき自ら「吾はこれ篁なり」と名乗ったという。篁が12歳の時、東の平安京をめざして郷里を出発し、都での篁はいよいよ勉学に励み、学芸、詩歌に優れ、その誉は天下に知れ渡った。18歳になり、篁は関白小野大臣良相の娘と結婚して小野家を継ぎ、「小野の篁」と号した、となっている。