山崎 正和 (やまざき まさかず) | |
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誕生 |
1934年3月26日 日本 京都府京都市[1] |
死没 |
2020年8月19日(86歳没) 日本 兵庫県神戸市 [2] |
職業 |
劇作家 評論家 演劇研究者 |
言語 | 日本語 |
教育 | 博士(文学)(1993年・大阪大学) |
最終学歴 |
京都大学文学部哲学科美学美術史専攻卒業 京都大学大学院文学研究科博士課程美学美術史学専攻中退 |
ジャンル |
戯曲 評論 |
主な受賞歴 |
1964年:岸田國士戯曲賞(『世阿彌』) 1972年:芸術選奨新人賞(『劇的なる日本人』) 1973年:芸術祭賞優秀賞(『実朝出帆』) 1973年:読売文学賞(『鴎外 戦う家長』) 1984年:読売文学賞(『オイディプス昇天』) 1984年:吉野作造賞(『柔らかい個人主義の誕生』) 1999年:紫綬褒章 2007年:文化功労者 2011年:日本芸術院賞恩賜賞 2018年:文化勲章 |
山崎 正和(やまざき まさかず、英語: Masakazu Yamazaki 1934年〈昭和9年〉3月26日 - 2020年〈令和2年〉8月19日)は、日本の劇作家、評論家、演劇研究者。サントリー文化財団副理事長、大阪大学名誉教授、経済産業省参与。日本芸術院会員、文化功労者、文化勲章受章者。
関西大学文学部教授、大阪大学文学部教授、東亜大学学長、文部科学省中央教育審議会会長(第4期)、LCA大学院大学学長などを歴任した。
京大文学部に入学、美学を専攻した。早くから演劇に興味をもち、1963年に戯曲『世阿弥』を発表した。『世阿弥』は同年俳優座によって上演され、英語、ドイツ語に訳されて、ニューヨーク、フィレンツェでも上演された。1967年にはイエール大学で日本文学を講じている。
『後白河法皇』(1966年)、『冬の花火』(1968年)など多数の話題作を発表して、劇作家としての地位を築いた。一方、評論の分野でも活躍。とりわけ『劇的なる日本人』(1971年)は、従来劇的でないとされてきた日本人の生活の中に、西洋とは異質の劇的精神があることを指摘した。その他、『柔らかい個人主義の誕生』(1984年)、『文化開国への挑戦』(1987年)、『大停滞の時代を超えて』(2012年)など、幅広い視野で文化論・文明論を展開している。
京都府京都市出身。満洲国の瀋陽で育ち、11歳の少年時代、第二次世界大戦末期のソ連対日参戦によるソ連兵の暴虐や混乱を目の当たりにして、文明社会が無秩序や残虐さと隣り合わせであることを実感した。父は同地で死去。また森鴎外やウィリアム・シェイクスピアなどの作品を読んでいた[3]。引き揚げ[4] 後、京都府立鴨沂高等学校を経て、京都大学文学部哲学科美学美術史専攻卒業。同大学院文学研究科博士課程美学美術史学専攻中退。貧しい母子家庭であったが、フルブライト・プログラムの援助を受け[3]1964年から1965年にかけてアメリカ合衆国のイェール大学演劇学科に留学した[5]。
1969年に関西大学文学部助教授に就任。この年、全共闘の学生に取り囲まれて殴打され、さらに学生運動に共感していた医師から治療を拒否される体験をする[3]。1974年には同学部教授に昇任。1976年から1995年まで大阪大学文学部教授を務める。東亜大学学長を経て、大阪大学名誉教授、LCA大学院大学学長に着任した。1993年の学位論文『演技する精神』により、大阪大学で博士(文学)を取得する。
大学院在学中から戯曲を執筆し、1963年に『世阿彌』で岸田国士戯曲賞を受賞した。その後、評論活動を開始し、1972年に近代日本文明論『劇的なる日本人』で芸術選奨新人賞を受賞した[6]。1973年、森鷗外を新しい視点から論じた『鴎外 戦う家長』で読売文学賞を受賞。続編『不機嫌の時代』では、日露戦争以降の文学者たちの状況を捉えた。
アメリカ論、室町時代論など射程は広く、『太平記』や『徒然草』『方丈記』など古典・中世文学の現代語訳も手掛けた。1984年には、現代日本文化論『柔らかい個人主義の誕生』で吉野作造賞を受賞した。以後は文芸評論のみならず文明評論にも取り組み、丸谷才一との対談により文化論を多く刊行した。専門の演劇美学に関する戯曲・評論も続けて発表しており、著作集全12巻(1981~1982年刊)がある。
1995年1月17日早朝、兵庫県西宮市の自宅で阪神・淡路大震災に遭遇。被災地は食料にも事欠く有様だったが、満州での体験もあって、非常時でも「おにぎりも文化も必要」と決意。ひょうご舞台芸術の芸術監督として栗山民也演出の作品『GHETTO/ゲットー』を震災5カ月後で周囲にまだ瓦礫が残る新神戸オリエンタル劇場で上演にこぎつけた。関西財界に頼んで切符を売り、東京での稽古に立ち会って思わず泣いてしまうなど奔走した[3]。
1999年に紫綬褒章[7]、2007年に文化功労者、2011年に日本芸術院賞・恩賜賞を受賞。同年、日本芸術院会員に就任した。
2020年8月19日、悪性中皮腫のために逝去[2][9]、86歳。
成熟した個人主義に基づく近代社会の構築を提唱しており、企業メセナやボランティアの概念を日本に普及させた当事者の一人である。阪神・淡路大震災で活躍した市民ボランティアを「柔らかい個人主義」の実現と高く評価した。
政治思想としては中道・親米的な現実主義の立場を採り、冷戦下では自由主義陣営への支持を明言した。「『政治的な保守』というものは存在しないし、存在しえない」「もし保守というものが成立するとしたら、それは広い意味での『文化』の領域に限られるだろう」と解説した上で、自らを文化的保守であると説明する[17]。
1990年代には、福澤諭吉の「脱亜入欧」論に倣って「脱亜入洋」(洋=オセアニア)論を提唱した。
政治家やマスメディアによるポピュリズムを批判するとともに、ポピュリズムとポピュリストについて以下のように定義している[18]。
「 | 第1に、彼らは民衆の感情を刺激し、理性よりも情念に訴えるという形をとり、しかも、その情念は反感、あるいは嫉妬という点に絞られ、その対象として敵を必要とする。 第2に、ポピュリストが勝利を収めていくとナンバーツー叩きという形をとる。そして、ポピュリズムが勝利を収めた上で、法的、制度的な改編を行って、勝利の結果を永久化するとファシズムになる。 第3に、ポピュリズムはその形成過程において、その目的を実現するための手続き、過程、制度というものを無視するやり方をとり、あらゆる制度、手続きというものを、むしろ目的の敵として攻撃する。 |
」 |
著書の記述の一部が高等学校の国語教科書や大学入試などでよく使用される。
1980年代以降の日本における喫煙規制強化に対しては、過剰な公権力の介入であるとして「禁煙ファシズム」などと批判している。養老孟司との対談でも中学時代の喫煙体験と、「70歳以上の人に阿片を解禁したら幸せな老人が増えるかもしれない」との考えを示し「禁煙ファシズム」を強く批判した[19]。山崎の喫煙規制批判に関して、日本禁煙学会理事長作田学らは2007年9月13日付で山崎宛ての公開質問状を発表した[20]。
定年退職年齢を70歳まで延長し、大学卒業者の就職年齢を30歳前後まで遅らせる「人生10年先送り」論を提唱した。「人生の複線化計画」の一環として青春期に10年間の空白を設けることで、若者は経験を積みながら広い教養と趣味を身に付けられるとする。義務教育の内容を濃密化すれば、10年間の空白によって中卒者と大卒者は同質化できるとも説明した。
『世界大百科事典』の「戯曲」「台詞」「ドラマトゥルギー」および「間」の項目を執筆した。